ナしょう。どっちみち。
きょう、『新女苑』という女の雑誌が来て、いろんなひとの、「私の一番たのしい時」という写真と文がのって居ました。入江たか子は曰く、撮影がすっかりすんだとき、家にいてゆっくりお料理をしたりお菓子こしらえられるとき。これはわかりますね。森律子は赫子という養女の女優と芝居へ出る迄の時間二人でぶらぶら遊びに歩くとき、そして芝居からかえって夜半の一二時間。その時間のしんとしたたのしさを語って居り、これもわかる。あと女では、原信子(歌うたい)、男で日夏耿之介氏、居炉裏《いろり》、何だか仏壇みたいに見える傍の机。ちんまりすわっている顔、私も五十になってあせることのつまらなさがわかった云々。そうかと思うと室生犀星。庭でくらすことを書き、八十坪ほどの庭だが一人では守りをしかね、植木屋が入っていて草とり婆さんが、一本一本こまっかい草までぬいていて、雨が降ると障子をしめてお茶ばかりのむのですって。「一時間以上の雨は庭をきたなくするからである」ハッハッハと笑ってしまうわね。明日からは五月梅雨ですから、おお哀れ犀星よ、汝の茶腹をいかんせん、というところです。実におくめんなしに。一番ましなのは、高村光太郎で、いつが一番すきかたのしいかときかれると、きらいと云う時は別にないと気付いた云々。自然です。大体こういう質問に女のひとの方がすらりとあたりまえに答えているのは興味ふかいところです。偶然人によるのだろうけれども。
この頃、ちょ[#「ょ」に「ママ」の注記]/\吉屋信子が随筆と名づけるものをかきますが、私は、面白く感じてみます。菊池寛の「話の屑籠」とやや似《にか》よった平俗性に立っているところ、ああいう通俗作家のセンスというものの共通なところわかって面白いが、又お信さんのは一段とザラ紙のセンスで、とめどなく大味とでもいうか、可笑しい。この間自分のにせものが大阪にあらわれて宿やでかっぱらいして逃げたのですって。それをプリプリ怒って書いている、宿屋をする位なのににせものの見さかいがつかないか云々。自分の顔は天下に知らぬものないのに云々。かっぱらいする女が自分のにせで通る、そこに何とも云えぬ皮肉を感じないのね。自身についての皮肉、世間のめくら千人への皮肉や悲哀、そういうものまるでなく、元知事某がおこるときみたいにおこっていました。こういう感情の、全くのおかみさん性、なかなか彼女
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