「とか、なるとか。その汁が松の木の緑を深めるというので野原の小父さまが御存命中、わざわざタコを買ってその汁をかけたとか、そんな話をしながら。うちの仲仕たちタコが好きですって。その御馳走。タコは骨を太くするんじゃげなと仰云るから、アラ、タコは自分が骨なしの癖に、と又大笑い。
『大阪朝日』へは『東京朝日』へ出る『中公』の公広[#「公広」に「ママ」の注記]など二十二日になって出るのですね。きょう、『中央公論』と『日本評論』とがのっていて、『日本評論』ではパール・バックの「愛国者」という小説の抄訳か完訳か、広告が出て居ります。これは日本の長崎や日本人や、日本に留学している中国人やらが出るのですって。バックはどのような材料によったのでしょうか。
 同じ『日本評論』に富沢有為男の「東洋」という小説の広告あり。題が多くを語っている、そのような作品でしょう。しかしこの題からバックの取材(日本人など扱う)を考え合わせ、日本の文学の複雑な内包的可能性というようなものについて考えます。日本の文学において見らるべき視野は、明かに地理的にもひろがって居り、それによって人的諸関係もひろがって来ている。日本の小説が東洋というような題をもちたがる気分が生じている。そのことの中に、現在は盲目性がその中軸となって居ること、ならざるを得ないような事情が、この新しい文学上の条件を非常に特殊なものにしている。非文学的な性質にしている。こういう時期がどのように経過するか、そして真のひろがりがどのように文学の上にもたらされるか、これは十分注意をもって観られるべきことです。川端康成や何か、作品の部分部分でそういう点ではごく小さく或る追随をしつつ全体としてはそういうものと対立するものとして純文学を云って居り、そういう読書人間の要求もありますが、純文学というものが川端の火の枕(「雪国」)でなければならないのではなく、又所謂生活派でも(これは自然主義の一転形ですから)なければならないというのでもない。真の文学の発展、成長が、地理的拡大だけではなり立たないという微妙な真理はここにも反映して居り、文学をもって生涯の仕事としているものにとっての云いつくせぬ遺憾があるわけですね。この点については、なかなか面白い問題がふくまれています。
 二十三日
 今朝は三時四十分に多賀ちゃんを起し、多賀ちゃんが御飯の仕度してから二人の男連を
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