色いドテラの片肩をぬいで書いているので榊原さん曰ク「そんなにおあつうございますか」
一月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 豊島区目白三ノ三五七〇より(封書)〕
一月九日夜 第五信
今、夜の七時半。榊原さんはここの寄宿の方へ遊びに行って九時にかえって来るところ。私はフォンターネという十九世紀のドイツのリアリスト作家の「迷路」という小説を読み終って、さてとあたりを見まわしたが、お喋りがしたくなって。このフォンターネという作家は、訳者によってリアリストと云われているが、リアリスムは、ドイツではこういう身分にさからったことをすれば、結局不幸になる、という良識[#「良識」に傍点]を、菊池寛のように恋愛その他の生活法にあてはめてゆく態度に限られていたのでしょうか。ドイツのリアリスムというものに興味を覚えます。ドイツの文学史は知らないけれども。ゲーテ賞を(ノーベル賞なんかナチの文学者は受けるに及ばん。ゲーテ賞をやる、ということで)貰ったカロッサにしろ、医者として或点大変リアリスティックですが、いざとなると、永井潜先生に近づき科学と宗教的なものとをまぜ合わせてしまっている。フランスが文学に於て示したリアリスムの力づよい歴史的な功績と比べて面白い。
今この部屋のスティームの上に、私の腹帯が乾してあり、その上にお正月用にお送りしたと同じ手拭がほしてあります。この手拭はスフ三分混紡で、今にこれでも珍しいものとなるわけですが、使って御覧になりましたか? ちっともさっぱり水が切れません。スフは赤ちゃんの皮膚を刺戟してただらすので、この頃お母さんになる人たちは、古いものでも木綿をきせたいと大努力です。私の腹帯にしろ、晒《さらし》木綿は貴重品、こうやって大切に扱う次第です。
どこかで鳥が囀《さえず》っている。外かしら、それとも室のどこかで飼っているのかしら、チュチュンチュンチュンと囀っている。それともどこかの籠から逃げたのでしょうか。何か気にかかる。
あしたの晩は三週間ぶりで、我が家の机の前に坐れます。そして、こういう万年筆ではないペンで字が書けます。この万年筆のこと、いつかお話ししたことがあるでしょうか、母のかたみだということを。パリで母の誕生日十月十日の記念に父が買ったものです。大切にビロードのケースに入れて、あの殆ど盲目に近かった眼で、勘九分でいつもいろいろ書いていたその万年
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