さて、きょうは沢山書くことがある日です。この手紙のつく前二十四日に寿江子があらましの様子申しあげましたろうが、十八日づけのこのお手紙、速達で二十日につきましたがそれはもう夜でね、母上と広島に行っていた留守。十時二十分かにかえって来て拝見した次第です。したがってこのお手紙について隆ちゃんに話すことは出来ませんでしたが、おことづけはよくしましたし遺憾はないと思います。
十七日にあの手紙書いてから野原へゆきました。六時半のバスで。あの手紙書いているとき叔母さんがいらしてね。去年までの習慣で私はまだ二階で寝ているだろうと思って下に喋っていらしたのですって。そこへ私が下りて行ったというわけ。それから二時すぎおかえり迄つき合っていて、夕刻バスで行きました。この頃はガソリンがないから野原まで直通バスは一日一回です。上島田《カミシマダ》を少し出はずれると、野原へのあの一本道の幅が、ところどころ左手の山をくずして大分ひろく、車をかわすのに便利のようになっているのが目につきました。島田市《シマダイチ》附近は、もう大分活況を示していて、「山一組出張所」というような板カンバンが出て居り、すこしゆくと、あの池(景色のよい)の手前あたりの右手の山が切りくずされ朝鮮人のバラックが幾棟か建って洗濯物が干しつらねられ、土方たちがもう仕事からかえった時刻で、何だかかたまって遊んでいるのがバスの上から見えました。もうそのあたりから、緑暗色の外見は実に陰鬱なコンクリートの高さ一丈、底辺の厚み三尺三寸とかいう高壁が蜒々《えんえん》と松の木の間、小丘の裾をうねりつづいて丁度野原の家の前の辺が正門になる由。周囲の樹木の色との関係で平面に見たときああいう色は便宜なのだろうと理解されますが、道行人はエレベーションで見たのですから全く陰気な印象です。正門という辺はまだ出来ていず、その壁は野原のお墓ね、あの日当りのいい、いかにも野の真中の、あのずっと手前を通過して、郵便局よりの墓地のところで終る由。野原の奥座敷の鶏舎よりの廊下の障子をあけたら、いきなり朝鮮人の宿舎の窓があって(鶏舎をかりている)裸の男や何かいて面くらいました。その連中は鶏舎一棟を十五円でかりている。三つに室が分かれているところを一つは雑居、一つは食堂、一つは親方というのがその家族と住んでいる由。朝鮮の唄声、朝鮮の笛の音が、朝目をさましたときからきこ
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