、文学において、責任のある感じというその感じかたのポイントがいろいろなわけですから、やはりそこに甘えた、非現実的な自己評価がなかったとは、今の私の心持から、云えません。十年間に、作家として殆ど文学史的な意味での十分な仕事がないということは、身を刻まれる思いがします。今これを知ることは、だが、いいことです。何故なら、十年間のいろいろな経験が、身につかぬものはふるい落され、身にしみついたものはのこって、今は、その発酵の時期ですから。少くとも私の作家としての成長の過程から見て。そして、生活の具体的な諸事情から見ても。
外に向っての勝気ということについて、前便かで書いて下すっていましたが、これも実に微妙であって、私は、おかみさん的の勝気はない。けれども、或方向、正しいと思われる文学の存在権とでもいうようなものをかばう心持においては勝気でしょうと思う。その場合、知らず知らず自分の正義の肯定と絡み、その絡みかたにおいて一方の低さから主観的になり、その主観に回帰性が加って、じりじりと心にくい込むものとは反対の形をとって現れて来る。そういういきさつ。その裡には、やはり、私の昔の生活の雰囲気から来ているもの、会ではひとが、中央に私を坐らせる、そういうようなもの、種々が影響しているわけです。
昨今感じられているこの沈潜性が、あぶなげのない実力として身に具るのは、これからの勉強次第ということは実にわかります。日々の勉強、自分への切りこみ、自分を益※[#二の字点、1−2−22]広く高いもののうちに同化さすこと、その日々が、実力となってゆくのでしょう。だから今私は、毎日そちらへゆくこと、勉強すること、それしか考えていません。私たちということは、私たちの生活の初めから何千度か云われているが、その実質がやや真に迫ってつかまれて来たのは、これも近頃という感じがして、私はここにも新しくおどろきをもって感じ直しているものがあります。ずっと、自分がしゃんと生活し、仕事してゆくこと、それが私たちの生活の証であると考え、そのことは元より誤っていないが、現実の場合では、私[#「私」に傍点]と二重やきつけとなっていたし、五のものを七に力んでいたところもある。これは責任感のことについてふれた、ああいう心理と共通なものをも含んでいると思われます。
こういうような心持、これまでこういう形では見ていませんでしたね
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