全さのためにも大切であることは明かで、そのために、十分の自覚をもつことは出来ないながら芸術の勘でそのことを感じている範囲の作家でも、或文学的苦境を感じているのが今日でしょう。あなたがここの点の多難性を芸術の本質と現実のありようとの関係に立って明らかに観て、ユリの勉強のむずかしさを考えて下さるのは、本当にうれしい。(当然であるけれども、あなたからすれば)ここいらのところに多くの複雑なものがこもっていて、云って見れば百鬼夜行の出発点ともなっているのですから。消してしまおうとするものによって消されてしまっては仕方がない。存在しようとする。その努力や摸索が見当をすこし違えると、「あらがね」以後のその作者になったりいろいろに変化《へんげ》する。全然ジャーナリスムとの接触を考えないということは、消しに身を呈することになるし。(仮令《たとい》最も作家として純真な動機によるとしても、現実の結果ではそういうこととして現われますから)生活上の必要もある。可能な、そして適した形と範囲とでその面での接触を保ちつつ、私としては長篇にしがみついて、折れども折れざる線を描いてゆくのが一番自然であろうと思われます。この頃の文芸附録を見ると、ジェームス・ジョイス(「ユリシーズ」の作者)が十四年目に長篇の完成を公表している。あんな連中でさえそれだけ粘る。心からそう思いました。いつか書いた、「チボー家の人々」マルタン・デュ・ガールにしろね。
 私には段々あなたの繰返し繰返しおっしゃる自律性というものの真意にしろ真価にしろ、いくらかずつ現実の内容ではっきりして来るようです。こういう状態を想像して下さい。たとえば睡い朝、かすかに、そして途切れ途切れに物音がきこえて来て、それが追々急に近くきこえるかと思うとフット又遠くなり、だが益※[#二の字点、1−2−22]明瞭になって来る、そういう過程。これらのことはみんな「その年」という作品にも絡んでいて、私たちの会話に肉体があるという現実性とも結びついていて、生活と文学とに於て、グーッと私をひっぱりつつあるのです。表現が下手ですが、おわかりになるかしら。いろんなことが、やっと心臓までしみて来かかっている、そういう感じ。吸取紙のようで可笑しい云い方ですけれども。自分で深く感じて来ていることですから信吉や何かの中絶が頭脳的所産であったために切れたということも十分わかります
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