、勿論それだけの必要があり必然でしたが。印象はその方向で放散されないから、内部へ吸収を待つから。ではおやすみなさい。今夜はのうのうと眠ります。では明日に。

 三月八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 三月八日  第二十信
 今机のあたりに匂っているこの薄紅梅の香いを封じてあげたいこと。外は風がつよい日ですが、しずかな朝の室内に心持よく匂っています。この二枝は、日曜日に寿江子が哀れな犢《こうし》になったあと、電車にのって武蔵嵐山というところまで当てずっぽに出かけ、そこに畠山重忠の館趾の梅林というのを見たときの土産。この花は薄紅梅ですが、私は昔、女が紅梅重ねと云って着た色の濃い濃い紅梅が実に好きです。こうやってしげしげと見ると、梅の花は、花の裏の萼のところも美しく蕊の見える表より裏が面白い位ですね。その梅林の路に農士学校というのがありました。黒紋付に下駄をはいた書生が、牛肉の包みか何かぶら下げて田舎道を歩いていました。
 犢は、けさ熱川へ出発いたしました。おひささんをつけてやりました。ひさは今夜かえります。久しくあけていた家へ行って、布団ほしたり炭買ったり米買ったりするのにポツンと一人では何だか可哀そうだったから。正直に一人ゆくと思うとね。だものでつけてやった次第です。この頃は犢の生活も私に対してフランクになって、フランクになれるように整理されて来て何よりです。体の方も糖も大分ましで、私が病院にいた間あの位動けたからこの次かえる時分には又よくなって居りましょう。寿江子は熱川からかえるとノミにくわれたあとだらけになって、日にやけて、来ます。借りている家の納屋にひどいノミがいるのですって。そのわきを通るのにくわれる由。又ひどいのでしょう。六月に私が島田へゆくとき留守番にかえって来るプランです。
 さて、三月四日づけのお手紙をありがとう。きのうついたこと、申した通り。今度はそちらから下さる手紙の番号よく永つづきして覚えていらっしゃること。いつぞやも番号つけて下さり、でも程なくなくなってしまったことがありました。私の方は日記につけておくのだけれども。
 ところで、あなたはいい本をおよみになったことね、本当に!「朝起のすすめ」! 何とよく役にお立てになるでしょう! あなたがこの位引用なさる本はこれまであったでしょうか※[#疑問符感嘆符、1−8−77](このニヤニヤ
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