です。「えぐさ」は、世俗には清澄性と反対にだけ云われるけれども、芸術の場合は清澄そのものに一通りならぬえぐさが根本になければならぬところに妙味があります。やさしさにしても芳醇さにしても流露感についても。亜流の芸術家は、この本質なるえぐさを見ずに、やさしさなり素朴性なりを云々するから、さもなければ、俗的えぐさと置きかえて、えぐさで仕事師的に喰い下ることを強味のように考え誤ってもいます。Aの如き文学・思想の海のどのあたりに糸をたれればどのように魚がくいつくかということを、おくめんなく狙うことに於てえぐさを発揮するが如く。本当のえぐさに到達することは達人への道ですから。そして、えぐさが単音でないこと(「小祝の一家」は単音よ)、和音であること、折れども折れざる線であって、ポキリとした短い棒ではないこと。このことも亦意味ふかいものですね。今日に到って、秋声、正宗、浩二等の作家が、和郎よりもましであるというところ、和郎がものわかりよすぎる理由、等しく、正当な意味でのえぐさの濃淡にも関係して居ります。えぐさは私の成長の過程では現在、例の私、私に対する自身へのえぐい眼から第一歩をふみ出すべき種類のものであり、より確乎たる理性の緻密さの故に流動ゆたかになる感性の追求に向けられるべきであり、沈みこみの息のつづき工合に向けられるべきであると思われます。鋭い観察というような眼はしの問題には非ず。――そうお思いになるでしょう。生活をこね切らぬ、という状態は微妙なものですね。本人が、何とか自分の心で胡魔化しているより、現実に露出するものは、作家にあっては、実に大きい。今度書いた小説は小さいが、それらのことを私自身にいろいろ書いている間も考えさせたし、考えて気持があるところへ来て初めてかけたものでもあるし、私としては記念的な作品です。題は「その年」。
 生活を創造してゆくよろこびを体得すれば、と書かれていましたが、ここにもやはり新鮮にうつものがあります。これまで常に、中絶した作品について、注意して下すっていた。しかも私はもとは、一旦かきはじめた作品を中途でやめたことは一度もなかった。必ずまとめて来ている。それが30[#「30」は縦中横]年以後にはいくつかあって、当時自分としては、これまでなかったこと故、時間的な側からしか理由を見ることが出来ずにいました。今は、その理由も、時間的な外部の条件と合わ
前へ 次へ
全383ページ中79ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング