かも話した母の記念品。それからこれ。
きっとこれは長くよく役に立つでしょう。ガラスのあなたのお下りのペン皿にのせられつつ。そして、沢山の沢山のアンポン的物語とそうではない物語とを告げるでしょう。ときには魔法の小人のおはなしをも。
文房堂では同じとき、鉄製のどっしりしたブックエンド一対をも買いました。これは栄さん夫妻へのおくりものです。ター坊の思い出の日があのひとたちの十五年目の結婚記念日の由です。祝うようなんじゃないと云い、それもそうですが、ともかく十五年は一区切りだから、その本立てをあげます、私たちからとして。二つがあってはじめてそのものとして役立つというところがブックエンドを選んだ所以です。
原さんはもう退院して赤ちゃんと世田ヶ谷へかえりました。卯女《ウメ》(卯《ウ》年の女の子だからの由)という名。中野卯女。この卯女という名は吉屋信子の「家庭日記」という小説の主人公の名だそうで、稲ちゃんもアラーと云ったのですが、お父さん氏の意見ではあの小説はそう永生するものではないからいいのだそうです(勿論その小説はよまないでの話)。
この頃、日本映画の製作が旺《さかん》になって来て文芸映画がいくつかつくられ、水準も高くなったと云われて居ります。伊藤永之介の「鶯」「若い人」「子供の四季」「風の中の子供」「冬の宿」その他。そして今や直さんの「はたらく一家」「あらがね」。文芸映画がどんどんつくられてゆくことには、映画の内的世界の貧弱さから作品を文芸に求めるということに映画としての問題があり、文学の方から云うと、鑑賞のちゃんとした規準がないために、作品そのものが不具なりに適応している。映画がそれをそのままもっと表面的な気分で描いてひろげるから、生活的な影響が益※[#二の字点、1−2−22]わけのわからないものになってゆく。そういう相互的な関係を生じて居ります。シナリオ・ライタアが真面目に求めようと欲しているところは察しられますが、自身独立にシナリオとして生み出す力がかけている。そのことも文学との関係も、実に歴史的な相貌と云うべきです。
明日は十二日。あさっての朝は出かけてこのペンをお見せし、さすがのあなたもへるほどにお祝をねだるつもりで、大いにたのしみです。
十三日にお気がつくかしら。私は髪のかきかたをすこしばかり変えたのですが。あんまりキューとひきつめていていやなので、
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