ニいうことにこだわらず。

 夏以来いろいろと大切な問題が出ていて、それについて自分は決していい加減な気持や態度や気休め的答えはしていなかったと思う。真面目にふれ、とりあつかって来てはいるのだが、回顧して見ると、まだまだ強力な全面的把握に到っていなかったしその真面目さも部分的であり、トーンにおいては傷心的でもあったと思う。飛行機が着陸しようとするとき段々に下降して来てつ[#「つ」に傍点]と地表に滑走輪をふれるが、弾んで又はなれ、はなれて又ふれて来て、そういう運動をくりかえす。いくつかの問題とそれに対する自分の心持とはいくらかその関係に似ていたところがあるように思われる。或とき触れる、相当つよくふれる、地面に深い跡をのこす。だがやがて又はなれて行っていて、或ところで又ふれる。深浅に差があり、間がとんで、いずれにしても外部的であることに違いはない。真面目さと云っても、どういうものであったろうか。問題の核心と自分の内部とがぴったり一致して生じる落ついた、平らかな、追究的なのびた力ではなかったと思う。不安が真面目にさせる根柢のモーティヴであったと思う。不安で、軽々した気分で扱えもしないし、はぐらかすことなどもとより出来ない。しかも問題を出される真意も、それを受動的に受けて苦しんでいる自身の心の内部をも、よくわかっていなかったと云える。しかも一面では、自分がとかく云われる言葉を感情的にうけること、それを全体とのつり合いの上で感じず、局部的なものを全部的にうけること。その反応のしかた、答えかたも、どうも自分の一番健全なところが張り出され切らないことが苦痛に自覚されていた。
 風邪で臥て、天井を眺め、朝から夜まで絶えずそれらの点を考えつづけていた。肉体の妙な不調和で夜もよく眠らない。従ってその間も頭からぬけない。そのうちの一日、栄さんが一つの手紙をもって来てくれた。それを読み、キュリー夫人について書かれ、所謂家庭での点の辛さについて、婦人の能力について諦観的限度を認めていないということ、しかしその大志は婦人自身によっても日常的には歓迎されないらしい、と書かれているところを読んだら、ずっと雲が追っかけ追っかけ走っていた空の底に、全く碧く澄んでいるより高い空の色が見えた感じがして、極りわるい位、くりかえし手にとりあげて読み直した。
 果して、自分は大志によって諸問題をとらえ、それを噛みこなしていたろうか。女房的なもの、相対的なもの、互の機嫌に連関して感情的に作用するものとして受けていたところはなかったろうか。自分たちの間に生じる様々の問題は、根柢にあっては常に大志に根ざしているものだということは、何年かの生活とその蓄積とによってわかってはいるのだが、そうわかりつつ、直接の扱いは相対的で、大志によるものという考えかたは或意味でのマンネリズムに堕してはいなかったろうか。さもなければ、ひとにあてて書かれ、一般的に云われているこの言葉が、どうしてこうも新鮮に、ブレークの空のような色で自分をうつのだろう。そして、自身の成長に限界をおかれていないという歓びの感覚が、おどろきの如く感じられるのも、何故であろうか。

 それからは、やや焦点がきまって来て、この半歳における自身の受動性について考えられて来た。積極的に打開し、解決しようという努力はあるのだが、それが発揮されなかった諸原因について。自分の手紙につきまとった或る当てのない痛心や卑屈さやについて。ちっとも求められていたものでないそれらのものが、書いた字数の過半を埋めていたことについて。
 七月下旬、キンシカイジョケンジという電報が来たとき自分はサーッと門が開いて、そこに手をひろげてサア来ていいよ、という声をきいたように思った。頭からとび込むような気で、謂わば眼をつぶって全感覚をうちまかせて、空気そのものからさえよろこびを吸い込もうとする貪婪さで歩き出した。
 抽象的な形で、うれしさがつづいていたと思う。さて、いよいよ「是好日《これこうじつ》」のうちつづきという単純なむさぼりがあった。
 ところが、現象的には却って思いがけない程昔のこと[自注14]が今とり出され、それについての実際うすれてしまった記憶の喚起が求められ、又、何年間かの生活態度について、急襲的な批判が起って来た。
 自身の生きかたがこれまで間違っていたとは思わず、より成長するために新たな刺戟、脱皮が必要に迫っているということを自覚しているところまでは敏感でなかった状態であったから、これは雨霰《あめあられ》と感じられたのはさけ難いことであった。同時に、主観的な態度では実に二人の生活を大切にして来た。これまでの何年間か。些の誤解や喰いちがいやの生じないように、波浪の間に在るからこそ、互の生活こそは玉の如き玲瓏《れいろう》さにおこうと努めて来ていて、それは実現されていると思いこんでいた。沢山の生活の語りつくされていない部分が、毎日会えるようになって語られ、時間にすれば数時間にも足りないこれまでの何年間かの生活の補強工作がされる時期として、リアリスティックな用意で感情が整えられていなかった。従って、こういう形で生活の充実がもたらされるべき機会という今の自分の心に生じている摂取力がなくて、いきなり感情の居心地わるさ、当惑、不安。何とかして早くこういうときをぬけたいと思う心。そのために、箇々の問題の出されるごとに、一生懸命それにしがみついて、答えつつ、基本的に見れば、受身で相対的で、それによって現われる一つ一つの表情に、実に現象的に一喜一憂して来たと思う。実にその点では、これまでの自分の生涯に嘗て経験しなかった一喜一憂であり、毎日顔を見るという感性の刺戟が一層それを増し、きのうの顔、きょうの顔、きのうの手紙、きょうの手紙、それらの間に揉まれた。揉まれつつ、やはり根本は大志に根ざしていることは見失えず、従って、非合理な哀訴や悲鳴や涙は、それとして押し出せない。何か耐え難い心であった。
 これには、微妙に生活の又ほかの面からの影響とも交錯していると思う。例えば、自分が今書くものを発表出来ない条件にいること。そのため、そういう自身の立場を一人の人にこそ十分に肯定して欲しいと感じている甘えた心。及び、秋ごろ突発的に身辺に生じた紛糾(友人間のこと)で、友情とか善い意志とか或る認識の到達点への信頼とかいうものが、甚しく崩されたこと。それらの悪気流もからんで、感情的に主観的に傾かせた。
 自分たちの生活だけは明るさで貫きたい、その希望は正当であるが、姑息に陥って、鼻息をうかがう的になって、却って雲を湧かせることになったのは興味深く、おそろしいところと思う。
 段々と環を狭めて行って、更に考えの一つの核が発見されるようになった。それは、退院後の余り威張れない効果をともなった態度[自注15]という点。
 このことがとり出されたとき、何より自分は苦痛の感じで間誤ついて、わるかったという風に思い、言葉に出して弁解の余地はないとも云った。けれども、猶横になっていろいろいろいろ考えて見ると、自分の心持として当時のいきさつがどうしてものみこめない。良人に対してどのように一貫したかということとの連絡で、どうしても単に効果として云われたことを、へいとそれなり自分が承知したとすれば、その不見識というか、もろさというか、それがどうも腑に落ちない。自分は一刻も早くかえりたかったのだろうか? 決してそうではなかった。父がよくこう云った。お前のすることは間違っていないと思うよ。だが、儂《わし》は切ないからね、可哀そうで切ないから、儂の生きている間はそういうことのないようにしておくれ。もう僅かだよ、二三年の辛抱だよ。よくそう云った。その父は、自分が最も心にかけていた状態において死んだ。思いのこすことは一つもなかった。一つの状態がさけ難いなら、そこの必然を最も純粋に経験すること、それが、人間、作家としての何よりの価値である。まして況《いわ》んや。
 条件的なことであったら勿論断っていたに相違ない。あのとき自分がそれをしかたのないことと思ったわけは何であったろうか。後、わざわざその点をきいたとき、曖昧にしていたと云われるが、それは何故だったのだろう。何か誤間化していたのだとも考えられない。
 当時の状況を細かく思いおこそうとしていて、不図一つの事実を思いおこし、それが法律上の性質を帯びていて、一定の期間の作用をもつのであったことを思い当った。(きのう、一寸話したこと)そして、そのことを当時きかれたとき、今日の二人の条件とは異っていた[自注16]ので、云い難かったこと、それで云えなかったのだったことを理解した。
 何という自分は驢馬《ろば》だろう。すぐびっくりする。途方にくれる。いきなり悪かったと思う。何という驢馬だろう※[#感嘆符二つ、1−8−75] 自分に腹立たしく思った。
 続いて、一層深く沈んで、このようなこと総ては、単に、私は何て馬鹿なんでしょうと云って、それに答えられる何か優しい言葉を期待するような種類のことではなくて、自分の生活というものが、一画一画を鮮明につかまれて来ていないからであると思わざるを得なくなった。明確に、コンクリートに各モメントがつかまれていないから、時期的な推移がそれなりに作用して、昔は昔のように遠くなる。時間的に逆行した話題が出ると間誤つく、内容的にまごつく。
 この自省は一つの大きい輪を描いて、自分がいくつかの問題の出たこの半年間に、何故受動的であったかということへの自問のところへ戻って来るものです。
 私は、これまでのように、自分が箇々の問題にくっついて歩いていたのでは、何の意味もないと思うようになった。ユリ子論が必要と云われる、その意義がのみこめた。そして実にこれからの自身の成長は、独特な条件から最も健全であって、而も不健全に堕す無数の可能にとりまかれている、その中で成長しなければならないという意味で、自分が先ず鮮明にこの数年間の自身とその環境との諸関係を見直さなければならない、誰の御機嫌のためでもなく、道徳的な満足のためでもなく、全く生きて、成長する必要の点から、それをしなければならない。

 くどいようであるが、これが、自分論をかくに到った過程です。序説です。人間、作家それぞれにタイプがある。構成的な人間は、飽くまで意力的に構成的に人生に向うべきで、美や輝はその最高の状態においてのみ望むべきであると思う。ソフト・トーン(弱音器)をかけての演奏では本音が出ない。
 私は、ユリ子についての話をはじめ、研究をはじめる決心がついたとき、思わず床の中で一種の呵々《かか》大笑をやりました。遂にあなたのローマ式攻城法は成功をした、と。元よりこれには私の一番真面目な感謝とよろこびが含められての表現です。では、明日、つづけて。

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[自注14]思いがけない程昔のこと――一九三五年五月から一九三六年春にかけて百合子が市ヶ谷にいた間の顕治に対する差入状態。
[自注15]退院後の余り威張れない効果をともなった態度――戒厳令下の事情という判事の言葉に制約されて、百合子が公判までの三カ月ばかり顕治に差入れに行っても面会せず、公然と手紙を書かなかったこと。
[自注16]今日の二人の条件とは異っていた――接見禁止中、書信禁止中は立合看守によって記録される面会の時の話の内容と、双方の手紙がみんな予審判事のもとにまわされた。
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 十二月十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十二月十六日  第八十二信(B)
 成長の跡をさかのぼって考えて見ると、自分の過去において「私は」という一句が、非常に重大な各モメントにあらわれている。子供っていうものは大人のいうことをきくもんです、だって私いやなの。からはじまって、「貧しき人々の群」は、素朴ながら社会的に私はというものを、当時の既成文学の趣向に向って主張したものであったと思う。以来、環境が必然する様々の習俗に対して、矢面に立ちとおしたのは、私はそう思う、思わない、仮令《たとい》
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