謔、にしようとして居て、この附近から武蔵野電車の沿線に家をさがしているが、なかなかありません。細君は二階で、良人は小さい洋間のあるところを見つけて、そこへ城を構えようというプランなのだが。
 ところで、こういう風にして書くと、本当によく詰りますね。私は手紙に大きい字を書く方で、しかしそちらへは細かいつもりでも、やっぱりこれよりは大きかった。
 漢口の一角へ突入したというので、今夕は提灯行列があるそうです。七時頃から。
 七時と云えば、私たちの愛する時計 My rica が、この頃は夏のみならず、秋に入っても一日に数分おくれるようになりました。どういうことなのかしら。昔ながらリボンだけは黒の女もの、留金だけは金をつけられて、毎日チクタクやっているが。私の朝起きてからの大体はこんな割当てです。六時に大抵目をさます。小窓をあける。おひさ君が起き出して掃除はじめるのをきいて床にいる。七時十五分前ごろおりて行って、目を洗って、髪を結って、鼻の頭をパタパタとやって鏡をのぞいて、来信を見る。そして食事。このとき、出かけたあとにたのむ用事を話す。さて、どうお天気は、降るだろうか、そんなことを云いながら着物を着かえて、出かける。これが八時から八時十五分すぎまでの間です。
 上り屋敷の田舎びた駅で、この頃は鋼鉄色になりはじめた欅の梢など眺めながら電車を待ってのって、池袋。そこからバスで消防前。野っぱらが日毎に秋枯れて来て、夏は見えなかった小径が黒く朝つゆの間に眺められる景色など印象ぶかく眺めながら休憩所へ着いて、願紙へ書くのが、九時十五分前から九時ごろ。七時半受付とはり出してはありますが、いつかその通りやって大変時間を無駄にした。紙をよこす場所の人は八時でなければ現れず。第一回の呼出しは九時十五分前です。八時に行けば第一回の分に入るが、殆ど一時間待つことになります。
 順調に行けば、それからお会いして、うちへ殆ど十時すこし過には帰ります。一寸休んで、おひるにパンをたべて、午後は、勉強か、お客か。用事で巣鴨からじかによそへ廻るか。夕飯六時―六時半。それからこのごろは教課書をよみます。九時前後にお風呂に入り、すぐ二階へあがってしまう。スタンドをつけて暫く横になっていて、落付いてから計温して、眠る。
 そういう日程は、余り狂いません。お客にしろ、やはり世間並の時間というものがあって、こちらでいてよろしいと云わなければ、普通のお客で十時までは居りませんから。これまで最もこのプランを狂わすのは、壺井さん、稲ちゃんであったが、そちらもこの頃は生活ぶりを替えてしまったから、大変なちがいです。生活感情というものは実に微妙ですね。皆がやっぱり早寝早起きをしようとするようになる。直接の形ではないが、あなたの奨励法は、ひろく及ぼしました。
『中央公論』で十一月は女流作家短篇特輯を出しました。岡本かの子、円地文子、小山いと子、佐藤俊子、宇野千代子、矢田津世子の諸雄です。昔から時たまこういう催しをやったが、作品の質は、明かに一つの時代を語っていて、すさまじきものは、と申す有様です。恐るべき無内容、貧寒さ、人為性というものが、職業上先生[#「先生」に傍点]として厚顔に世間に押し出す度胸のつよさと、ひどい対比で現れている。折からアグネスをよんでいて、無量の感じに打たれました。只今毛布について煩悶中。もう一日乾そうかしら、それともこれから送ろうかと。この工合なら明日は晴天らしいけれども。どうかおなかをお大事に。

 十月二十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十月二十六日  第六十五信
 夕飯後の本をよみながら、今読んでいるのはルードウィヒの哲学について書かれている批評。これは実に面白い。非常に明瞭に書かれていて、この間二度目によんだドイツ哲学の内容の分析の行われている本との連続で本当に面白い。吸われるように読んで居ます。前の本の或箇処はこの本で一層はっきりとされるし、この本では直接書かれていない部分は、既によんだものによって与えられている。ここに批評の対象とされている哲学者の堂々めぐりの生涯とその思索、及、そこから出て、やがてそれから脱け出して生長した人々の精神活動の過程、ぬけ出して成長した人々の遺産を更に細君と狩猟などもした三年間の雪国での勉強で具体的に明確にした人の功績。こういう道を眺めると、いろいろ感想が深からざるを得ない。
 この哲学書の抽象人間や愛に対しての批評は、今日の文学批評の根底におかれるべき性質のものです。この哲学者が「彼自身死ぬほど嫌っていた抽象の王国から、活ける実在への道を発見することが出来なかった」ために、自然と人間とに密着しつつ、その現実的な在りようは理解しなかったという悲劇を、やがては怠慢を、この批評家は、情をもって彼を孤独におき「零落するに委させた」その国の事情に主な原因をみとめているが、今日の読者は、零落[#「零落」に丸傍点]に自分をまかせた(貧困と零落とは質のちがうものですから)本人の抑※[#二の字点、1−2−22]の生活への態度をやはり考えずにはいません。
    ――○――
 この本の筆者の特長についていろいろと面白く思います。彼の卓抜な相棒に対して、この人は普及のための文筆の活動をしたと巻頭に紹介されているが、イギリス人というものの気質の点からやはり興味を動かされる。全く別種であるダーウィンにしろね。こういう傑れた(書き方に於ても)本に活かされているアングロ・サクソンのプラスなるものがあることを感じます。同時に、この筆者が批評の対象とその環境との関係への感じかたも、彼自身の環境的なものを感じさせなくもなくて面白い。
    ――○――
 いつかあなたが、ジャーナリスティックなユリの文筆活動ということを仰云いましたね。云われた精髄が新しい意味でわかりかけて来て居ります。
 ああ、ああ、でも用心用心。私が一つわかると、わかったわかったとあなたに一々云って、逆にあなたから、そういうんだから云々と散々にやられるのは大変辛いから(※[#感嘆符二つ、1−8−75])(勿論、これは冗談よ)
    ――○――
 四十年間の協働。稀有なるめぐり合わせ。又それを可能ならしめた歴史のその時代。地理的事情。自身を素敵な第一ヴァイオリニストに対して幸福な第二《セコンド》ヴァイオリニストと認め得る、そのような喜び。
    ――○――
 私には実に興味つきぬ点がある。それは、こういう偉い人にでも時代の影はさしていると思われる点。例えば「今日真なりと認められているものは偽りの方面を包蔵していて、この方面が後日現れて来ると同様に、今日偽りと認められているものにも矢張り真の方面をもっていて、その方面のおかげで以前には真なりとして通用することが出来たのであること、必然事であると主張されているものは、純粋の偶然事で組立てられたものであって、偶然事と見えるものは必然事を包蔵する容器であること」という表現で、哲学上の対立(動かしがたいもの)とされていた対立を説明しているところを、わたし達の時代は、更にもっと動的な相互作用に於て「単に相対的な」もの以上のものとして把握し得るだけの進歩に恵まれている。ありがたいことだと思う。
 だが、この本を訳したひとは、人間の或瞬間に、全く自分の卑俗な便宜で、きっとこういうところを全く死枯させて自身の身のふりかたに役立てようとしたのでしょうね。丁度リアリズムの問題を、不具にしようとして人々が、バルザックについて書かれた手紙を、最低に読み直したように。
    ――○――
 昨今の流行語の一つにこういうのがあります。十九世紀は分析、綜合の世紀であった。しかして今世紀は(ナチの如く)行動の世紀である。須《すべから》く世紀の子たれ。松・平・の一属。
 こういう輩《やから》の、嘗ての勉強が、こういう箇処(自然科学が十八世紀は蒐集[#「蒐集」に傍点]の学、十九世紀がその整理[#「整理」に傍点]の学としての分析綜合の学として発展した云々)というようなところをアクロバットの跳ね台にしているのですね。成程。ローゼンベルグの「二十世紀の神話」が谷川の「日本の神話」の種の如きか。
 おや、いつしかもう九時です。そろそろ腰を上げなければ。元ならこんな面白さを中途で切るなんて。巻を離し得ず、夜ふかしをすれば、さすがの私も、今では頂く言葉はもう見当がつきますからね。ではサヨーナラ。
 二十七日。
 きわめてつながり工合のよい、必然の興味で、家族のことをよみはじめました。これらの四冊の本は一組となっているようなもので、切りはなせないが、普通どの順序で読むのでしょう。空想を第一なのは、明かだが。次は哲学者ルードウィッヒについて、次に哲学について、そしてこの家族から、更に経済の面と、二冊になっている哲学の本へ移るのが一番わかり易いようですね。
 著作が、全体的な叙述、更にその重要な部分部分についての深め・解説として展開されている過程は、真面目な仕事ぶりというものについて大いに教えるところがあります。所謂ジャーナリスティックな文筆との相違が益※[#二の字点、1−2−22]歴然として来る。こういう読書は適当の速度、量、一貫性で、次から次へと成長的にされる時、特に多くの収穫があることを感じます。(偶然の一冊は、何かを与えるにしろ、断片的で終りがちです。)そういう風に読むと、光が気持よく前後左右を照すような愉快があります。
 二十八日。
 きのうに比べてきょうは心軽やかにたのしく原っぱをかえって来ました。御自分で知っていらっしゃるでしょうか? この頃全体暖く流れているものの中でも特別に耀《かがや》く一寸したあなたの頭のうなずきがあるのを。私はそれを実に貪婪《どんらん》に吸い込む、自分への特別なおくりものとして。何分間かのエッセンスとして。明日までの糧食として。きのうは、そのおくりものがなくてかえりましたから。
    ――○――
 この手紙は、これで一区切りにしましょうね。そして別にきょうお話した、私のまわりについてすこし細かに書きます。自分の気持では、私たちの家として、ここにいらっしゃる生活のように感じていても、やっぱり書いた方が猶はっきりするところもある訳ですもの。
 会いに出ていらっしゃるにも、くたびれが感じられますか? きょうチラリとうかがって心配になった。私のために、毎日、すこし無理なときも歩いていらっしゃるのではないでしょうか。そんなことがあるのではないかしら。あなたが動くのが大儀に感じられるような時まで歩かせなくては、朝起きさえも出来ない程ではないのだから、本当にどうなのでしょう。ぶりかえしの性質をもっていたら、又絶対安静がよいのではないでしょうか。一番わるいときにも、歩かせてしまったのだから、実際にはおそすぎた気配りですが。いつも安心するような返事しかなさらないものだから、つい、それでいいように思う。呉々お大事に。暖い秋日和で、机の上の黄菊が匂うこと。

 こんな詰った字をお読みになるの、窮屈のようではないのかしら。

 十月二十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十月二十八日  第六十六信
 さて、この手紙はいろいろ周囲のことを主として。
 友達と呼び得る範囲につきあっているのは栄さん夫婦、戸塚の夫妻、中野さんたちぐらいです。然し最後の一組は細君が劇関係故いろいろちがうし、何しろ世田ヶ谷故滅多に会わない。うちで御飯をたべるようなこと(互の家で)も一年にかぞえる位しかない。栄さんは、私たちのああいうこまごました本のこと、身のまわりのこと(私などはよごれた着物を洗って迄もらいました)日常生活の家事的なことまで、栄さん一流の智恵をかりてたすけられている、いろんな話も率直に、深い信頼をもって互にしている。文学の話もわかります、この頃はあのひと自身独特な小説をかいている位だから。
 でも、文学についてその他について、あちらが受け身である、それは自然の結果。上落合の時代は、私はひとりぼっち家をもっていたから、毎日毎日世話になった
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