フひとにそういう女の心持はわからないとか、苦労していないとか、苦労が足りないとか反撥する場合が多い。それも興味ある現象です(一般的に見て云っているのですから、どうぞそのおつもりで)そして、こういう感情の質の相異が或意味では旧い年代の女の心持と、新しい年代の女の心持とのへだたりになってもいる(新しい年代がそれ自身の問題としてもっているものは又様々であり、それなりでよいと云えないものも多くあるのだが)。女の感情、男の感情から義太夫のさわり[#「さわり」に傍点]の部分は、さわりの趣味はいつになったらもっと朗らかで雄大壮厳な合唱と献身とに変ることでしょうね。
年齢が加って、社会的な体面のようなものが出来ると、ゴミ袋はいつしか尨大なものになって、つまりはゴミ袋をどうやらころがしてゆくのが日々の実体みたいなところを生じる人さえあるのだから。
私は襟を正して夫婦とはおそろしいものであると感じます。愛というものはどうやら際限がないらしい。それが愛であればあるほど。どっちみち愛によって生き又死ぬと云えるところがあるのだが、世俗的には身をほろぼすが如く見えつつ生きる道と、外面的には生きつつ実は身をほろぼす道との間に横わる各ニュアンスは実に千差万別であって、びっくりします。どんな人でもその人らしい恋愛しか出来ない。そう云うのも本当であるし、それ故に恋愛や夫婦の情合の生活に於ては、そうでない筈の人々も実に経験主義ですね。寧《むし》ろ、そうである権利のようなものを肯定し且つ主張さえする。科学で戦争がやられているが、この方面の感情の内にはモンストラスなものや暗愚なものがまだまだ蠢《うごめ》いていて、丁度ノートルダムの塔の雨樋飾《ガーゴイル》の怪物のようなものが棲んでさえいるようです。
明日からは事ム的に体も心も忙しくなることでしょう。だから今こうやって、このような話しを。
私の熱のこと。大分とばしてわるうございました。今でも朝おきて御飯前(七時半ごろ)と夕刻(五時半ごろ)、夜八時半か九時には計ります。二十八日の手紙ではのぼせていて、ばからしいさわぎのように見えたでしょう、御免なさい。いろいろ深く学ぶところがあった(あります)一般的な問題として。
二十五日に書いた手紙で前日までのを書いたでしょう、そう覚えて居ります。二十五日、六日、七日と朝五・四位、夕刻の一番高いときで六・九位でした。二十八、九と最高が七・一でした。三十日、十月一日、二、三、四日と最高が六・八。きのう、きょうは七。そして夜九時頃には六・八分です。
九月九日から表をつけ出したのだからもう三日間で一ヵ月ですが、その波を眺めると、九月十五日から九月二十七日位まで、二週間ばかり非常に平均して六・六から六・八を通り、二十七日以後恐らく又二週間ほど七度をすこし越すのではないでしょうか。どうもそうらしい。そうだとすると、生理的なピリオドを中心としていることになります、大体。神経質体質では八度越す人もある由。やはり夕刻五時頃が一番たかいから、もしこれから一ヵ月平均をとって見るとすれば、その時間だけ統一して見てもようございます。しかし本当のところ、私は一ヵ月の調査で十分な気がしているのです。どうお考えかしら。早寝早おきは、これさえ守って行けば、大変病気はふせげるという確信もつき、それが自分の習慣になったことも感じます。それには早朝の挨拶が何よりの役に立ちました。これはいつまでもつづけます。おもゆにきみのおなかではさぞだるいでしょうね。野菜スープ上っているでしょうか、あの匂いはおきらいですか。大してきらいでなかったら、やはりあがった方がいいのではないでしょうか。出来るだけ種類を増すために。本当にリンゴをすってあげたいこと。では又、小母さんがいらしての様子を。
十月十三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
十月十三日 第五十九信
一ヵ月ぶりの手紙は頂く方も大変珍しい。この間うち、随分お書きにならないなと思っていましたが、心持は全く膝つき合わせているから、或はそういう at Home さで、うちにいて、よそへは手紙書くように、誰彼へ書いていらっしゃるのかもしれないと思って居りました。
明るい陽のさしているようなお手紙。この頃は何だか特別に毎朝私の顔や心がいっぱいに心持のいい、云うに云われぬ光りを浴びる心持です。きのうなど、その心持よさ、うれしさ、充実したたっぷりさで感動しながら雨の中を原っぱをぬけました。こういう深い、汲めどもつきぬ感じを与える暖流は、何と宝でしょう。日光のチラチラするような、一寸|枝蔭《えだかげ》のさしているような、そういう安らかな流れに体をひたして、私は眼を瞑《つぶ》って自分の体をやさしくとりまくものの感じに流れこんだり、ああいい気持と又目をあけて、パシャパシャ水しぶきを立ててあちこち眺めたり。愉しい、愉しい気持。
こういう爽やかな、優しさと力に溢れたような情感の全身的な水浴を、あなたにも時折はさせて上げているでしょうか。私の人間としての質量が小さくて、もしそういう横溢の中にあなたを包み、新鮮にしてあげることが稀だとしたら、本当にすまないわけですね。
汲めどもつきぬもの、滾々《こんこん》と湧き出づるもの、私は貪慾だから、私たちの生活にあるそういうものを実に愛します。この頃特にそれが強くなって来ている。噴きぬき井戸が正しく真直に水脈の上に掘りぬかれていて、その上を風が吹けば虹色の立つ水が溢れるということは、大事なことです。曲りくねって、滲み出して、じめじめしたあふれ水はいやです。
勉強のこといろいろ有難う。私は小説家ですからという気持は大分減って来ているのですが、昨今感じるところあって、文学というもの(少くとも昨今文学と思われているもの)に対して、一層つよい疑いを抱いています。昔小説をかきはじめた頃、所謂文壇の作家の生活気分や作品やに対して本能的な不調和を感じていた。当時は、私の世界的基準はトルストイでしたが。つくってゆく小説、人間として生きてゆく歩みから出来る文学、その相異をしみじみ感じていたわけです。
昨今の出来事及び本になった小説(およみになれなかった)を再三よみ直し考えて見て、文士になっている[#「文士になっている」に傍点]感情のありようというものについて感じを新にしました。
今日の文学が健全性を失っていることはおどろくべきであると思う。人間感情の紛糾を、真に解決しよう、真に発展させよう、社会的な本源につきつめて究明してゆこうというより、社会的なものだ、相対的なものだ、という一定の観念の上に立って現実にはごたつく気持の縺《もつ》れ合《あ》いに身をまかせ、身をよじり、手をふりしぼる心の姿態を作家的自覚によって描いてゆく。現象的きわまりない。
どんな玉《たま》にしろ、ころがってゆくときは、真中というか中心を中心としているのだから、若しころがってゆく方向とか、ころがりかたを問題にせず、私は中心を真中にしてころがっているんですと主観的に強調したら、それっきりのものでしょう。
健全を求め、そのために努力しているつもりの作家に於てさえそうです。芸術家というものの感受性のありようについて、文士は度しがたい誤りにはまりこんでいる。人間が普通感じることを、一番人間らしい鋭さ、生新さ、溌剌さでピッタリと感じ、その感じを最も綜合的な内容=社会性の豊かな直感として、最も人間らしい意力によって処理してゆこうとする努力として、感受性を見ていない。本来なら頬の色が変るほど高い意味に於ておどろくべきことを、妙な客観性(と思いちがいしている鈍感さ、或は頭の鈍い形式主義)で、平気で、或は平気そうにうけて、さてそれから細いすこし指のふるえるような手で、それを身からはなしたところで、ああこうとこねて見て、それを小説だとしている。今日小説を書いている人々の何人が、真に愚鈍とその依って来るところに向って憤りを抱いているでしょう。それを少くしようという熱意で書いているでしょう。
紛糾を解決しようとする意志を多くの人が恐怖しています。紛糾に身を浮き沈めさせるそのことがヒューマニズムだと思っている。解決のため、その方向への一歩前進のための献身、その恐怖に堪える精神力は、ヒューマニズムの中に入れない。入れたがらない。日本の文学におけるヒューマニズムの特徴として実に近松が余韻をひっぱっています。日常生活におけるそういう人間的緊張の経験とその価値とを知らないから、多くの人々は北條民雄のように、癩病《らいびょう》になって死と闘う心持から書いたものとか、砲弾がドンドン云っているところで書かれたものとかいうものに、変に感傷的に感動し、過重評価する一種の病的傾向に陥っている。人間感情の不具、ディフォーメーションを餌《え》さにしているような文学に対して、私の文学ぎらいはつのります。
私がいつか書いた手紙の中に、自分の文学的技倆の不足を感じる程の生活内容ということをかきました。そのことと、こういう他面での私の所謂文学大きらいとは全く一致しているものなのです。強い羽搏きとつよい線と、しかも微に入り細を穿《うが》った諸現象の具象性をとらえ描きたい、そのために腕が足りないとそういう意味で。
このことは、逆に見れば愈※[#二の字点、1−2−22]私の作家的志向は、はっきりして来たことなのだから、腕[#「腕」に傍点]のためにも仰云るような勉強は大切なことがよく判ります。職人的修錬の腕は元より問題外なのであるから。
「麦」については笑ってしまった。だって、読んで見て、樹を見て森を見ぬと私だって書いているのですもの。読まぬうちこそ情愛もたのしい期待も抱かせられたが。然し、読まないだって、と云われれば、それは又別ですが。これについては、私の方が「読んで見たのかい」と或一つの作品についての評価であなたから云われた場合があったから、五分五分ね(こういう表現を評して、返上辛辣とでも申しましょうか)。職業的ルポルタージュへの反撥が過重された評価の原因であるとはわかって居ました。
謙虚についても履《は》きちがいはありませんから御安心下さい。自らを大切にし尊ぶことから生じる自重のみが謙虚への本道です。相対的に世俗的にへりくだることではないのだから。
すこし話は傍き道に入りますが、例えば貞潔ということ、謙虚ということ、或は克己ということ、それらを世間では、貞潔が必然となるような愛の質の側から、謙虚が結果する自重、人間尊重の側から克己が来たされるより大な生活目的の達成の努力の側からよろこびをもって自然に説かないのは、全く可怪《おか》しいことですね。このことは何でもないようで何でもある。例えば、不屈性というものにしろ、行為の基準というものにしろ、その側からだけ称えられても、それをもち来す根本の一貫したものが、人間精髄としてその者の背骨を通っていなければ、安ぶしんの二階通りお神楽《かぐら》で、上にちょいとのっかっているだけで、すこしひどく吹きつけると忽ち木端微塵である。科学的精神の波の伝統のうすい日本では、情操としてまで、髄の髄の欲求としてまでそういう心持が浸透していない。理窟、或は現象分析機として或考えかたがちょいと頭にのっているが、胸の方はドタバタ、一向調子が揃っていないのが多い。将来の教育の方法への示唆になります。四五年来のぐるりを見て強くそう思っている次第です。文学において、人間性の尊重が痴愚への屈伏となっている所以です。
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就眠・起床、サッパリだったね、には閉口して居ります。サッパリだったかしら、いつもではなくても時折はかいたように思うけれども。計温は、では十月一杯つづけて見ましょう。この前も書いたように、ざっと二週間ぐらい、本月は十日を中心に七度一二分になっています。早ね早おきをはじめて一ヵ月すこしですから、或は十月、十一月にかけてはましになるかもしれず。体癖を知るためにと云われると、だってというよりどころがないから、これ又閉口しておとなしく云うことをきくしかなし。きょうあたりから、
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