皆があんなに抱擁的であるのは実際から遠い。もっと辛辣です。もっといろいろ痛くない腹をさぐる眼ざしをします。あなたもよくよく御承知のように。
 人間の善意というものは、どのように形をかえてでも流れ出ずるもので、その美しさと活々とした力とは水のようです。傑《すぐ》れた芸術家ほどそういうものを豊かにもっている。人間性の様々の工夫、様々の思案を親切に評価し認めてゆくのは作家の愛です。それがなければ、土台芸術はないようなものであるが、或作品を或形で書くことで、書かれているなかみを語ろうとしているのではなくて、そう書く態度を示すのが目的であるとしたらどうでしょう。文学作品の評価は、そこへまで触れざるを得ないでしょうと思います。若い人々の現実は、どうせサラリーマンになるんだから、一つ満鉄へでも入りたいね、池貝へ入りたいね、そういう今日の形をとっている面がある。阿部知二さんの「幸福」という小説では駿介のような苦学した大学生が、卒業すると自殺してしまう人物が出て来る。駿介は方面ちがいの勉強を恩恵的にさせられることをいやがると説明されているが、観念の堂々めぐりにあきて、土をほじくることでも行動がほしいと更に心理的に分析されて居り作品ではそこに重点がある。志村がそう動いて来たのなら、筋がとおったようでもあるが、駿介という別箇のものをつくって、それを動かすにしては志村と二重うつしです。猶々微妙ないくつかの点もある。河が溢れて堰《せき》を既にちろちろ切りかかって居るとき、その堰に自分の手に鍬をもっているから、水はこちらへ流れようとする力を示しているのだからと堰の土を掘り下げる百姓があったとしたら、洪水ふせぎに出ている村人はおこるでしょう。
 二日に、徳さんにも夏みかんだの何だのを御馳走した気でいたら三十一日に帰京したというハガキを貰い、きょう午後見えました。やつれてはいるが元気です。
 ひさの代りに来ている栄さんという娘は、おひささんより他人の家で苦労しているので、仕事というものの事務的な処理をわきまえていて、几帳面なところがあって、よいところがあります。これは随分の見つけものです。この次お目にかかる迄に一つ考えておいて頂きたいことがあります。敷布団のことです。もうそれも相当になったでしょうが、夏のうちにとりかえてはどうでしょう、そして頭の方の角《かど》を[#図3、縦長の長方形から、上部の角2箇所を斜めに切り取った形の絵](こんな形に)した方が、そして今よりすこし幅をせまくした方が(普通に)便利ではないのでしょうか、丈《たけ》の点で。どうか御研究下さい。ではお大切に。おなかをお大切に。夏は妙に、却っておなかの冷える感じがあるのね。

 六月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(封書)〕

 第二十七信。
 今裏の鶏舎のところでお母さんと徳山の岩本の小母さんとが、ごみを焚していらっしゃる。駅のところでブレーキをきしませながら貨車が停車しました。この頃は貨物自動車の数が著しく減ったので、家の前通りは随分しずかです。夜中に耳についた貨車の軋りなどがこんな昼間によくきこえて来る。この汽車が蒸気を吐く音やギギーときしってしずかにとまる音には一種独特の淋しさがありますね。去年四月にきたときもそう感じたが。
 うちは、きょう初七日[自注4]でやっと少し落付きました。今までは全く手紙をかきに二階に上っていることが出来なかった。お葬式は喪主があなたでしたから私の用も多かったわけでした。万事とどこおりなく終りました。御父上の御経過から申しあげます。
 一週間程前(六月六日の)すこし心臓が苦しくおなりになったので、医者をよび注射をしてすこし氷でひやしていらした由です。それから又よくおなりになったが、すこし熱があるから薬をというのでそれだけずっとつづけていらした。六日は朝も昼も御飯をよく召上り、午後三時頃、多賀ちゃんがうちにいて、お母さんはつい近くの川へ洗濯に出かけていらした。そしたら「ヤイ」とおっしゃるので多賀ちゃんがお菓子ですかといいながら行ったら、大変汗を出していらっしゃる。「えろうありますか」ときいたら「えらい」といわれるので、「おばさん呼んで来ますから待っちょりませ」といったら、「待っちょる、待っちょる」とおっしゃった由です。川まで御存知の距離です。二人で戻って来たら、早もう息もおありにならない風で、二つばかり大きい息をおつきになったきりで万事休したそうです。医者は、従ってそのあとで呼ばれたわけですが、もちろん手の下しようがなかった。
 お母さんは、どうも食がちいと行けすぎると思うちょったと云っていらっしゃいます。おかゆなどもう一つと云って召上ったそうです。それにすこし話がおできになった由。「隆ちゃんも出征したらどうなろうかいの」とお母さんがおっしゃったら、
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