うこともそう大してないと思う。逆説的に云えば複雑な形で、大層大きい期待と張り合とがあるようなものです。だから、大変だから一層本気で暮さなければということの実質がここにあるのだと思うわけです。
ずっと昭和文学史補遺のようなものを、年々まとめて書いておくことも大事であると考えて居ります。昨年の末から書いた現代文学の展望のつづきとそれ以後の作品の現実について。これは有益なことであるから必ずやるつもりです。
文学としての諸潮流のありよう、或はあらざる有様もその変遷もなかなか面白い。
昨夜一寸『婦人公論』を見たら、ラジウムのキューリー夫人の伝をその娘の一人が書いているのをよみました。キューリー夫人が、女としてどんな幸福な妻であったかということ、その豊富な夫妻の共感共働が貧窮の灰色をさえ光らせているのを見て、感じるところが実に深かった。世の中には見事な生涯を送る夫婦というものが、いろいろの形でどっさりあるでしょうが、キューリー夫妻は、その傑作であったと思う。今のある種の若い人々にこれをよませると、ともかくそれだけ熱中出来る目的があったのだから幸福ですわ、というでしょうね。目的のないこと、才能のないこと、それを自覚しているというのが賢さの一モードであるから。同じ『婦公』に出ていて面白く感じたことは、現代の若い婦人への注文でいろんな先輩が、誰でも云うことをそれぞれ部分的に云っているが、今日の若い人々のリアリズムが、生活上負けた形でのリアリズムであることを指して居るのが一人もなかった。
その結果から生じている現象だけをとりあげていて、それがいけない、と云っている。実生活でその人々自身負けているリアリストで、ただ人間的理想というか、或る道義感というか、そんなものでだけ注文をつけている。自分が生活の経験を重ねるにつれて、現実にまける度がつよくなるにつれて、反動として青年に純粋なものを求める人々の感情をこの頃深く観察します。丁度中村武羅夫氏の純文学論のようなもので、自分が書くものはああいうもののために、芸術作品を云々するとひどく息まいて来る。人生の一波一波をその身で凌いで、いるところでものを云い、書きするということ、芸術家のとことんの力はこれできまるようなものですね。その抜き手のためには何とつよい腕と肺活量がいることでしょう。
松本正雄というひとと鉄兵とがバックの短篇を訳したのを六芸社から送ってくれました。主として、はじめのひとがやったらしい。読んだらお送りして見ましょう。茂輔さんの『あらがね』も送って見ましょうか。スノウの本はすこしお待ち下さい。
寝汗せは例外として出るのでしょうね。どうか呉々お大事に。これから夏にかけて、又十分気をつけましょうね。私の盲腸は、はと麦と玄米と黒豆とを煎《い》って挽《ひ》いたものを煮てのむことで大分つれなくなりました。では又。寿江子のことを書くのを忘れた。この次、別に何でもないけれども。
四月三十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕
四月三十日 第二十一信
さあさあと水道を出して洗濯ものをゆすいでいる音がしている。風呂場では水道の栓が来ていないから流し元でやっている。風の音が裏の電車の響を運んで来る。そしてすっかり障子を閉めていても、裏の北窓から見える青い空と気の遠くなるような欅の若葉の青々とした色と重みとがこの紙の上までさして来ているような心持。本当に初夏になりました。お体はいかがですか。やはり時々は寝汗が出るようでしょうか。どうか御大切に。リンゴをよく召上れ。よくすっかり噛《か》めば腸にももう大丈夫でしょうし、腹の健康を増すためにもよいと思います。東北大で赤痢をリンゴ液で癒す実験に成功したこといつか余程前にも申しましたね。そう云い乍ら私自身は大して食べられないような工合で威張れないが。
きのうは祭日で歌子さんが休みなので、少々慰問のため、裏の武蔵野電車で二十分ばかり行った大泉の野原へ栄さんと三人で午後から歩きに出かけました。赤松とくぬぎ欅の雑木林の多い、いかにも高原風な風趣のあるところです。風致地区になっているので、やたらに家も畑もつくらせず、自然の草道が切りひらかれた雑木林の間に遠く消えている。その見とおしが心をひきつけるのであすこへ行って見たいとつい歩く。そういうところで、景色の北方めいた荒さその中に流れている優しさが、実に私の好みに合うところです。上り屋敷から22[#「22」は縦中横]銭でそこへ行ける。よいところを見つけ出したものだと大満足です。しかしここは大人のしかも音楽を好くような人間の或種の人を魅するのであって、太郎などは駄目。第一お猿がいないし驢馬《ろば》もいないし。
太郎親子は一ヵ月余国府津で暮しました。そしてかえって来て太郎を幼稚園につれて行ったら、アアちゃんの
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