フに傷は最小限につけるという立て前の由。私の決して小さからぬおなかに一寸に足りぬ傷が、きれいに癒着するのは先生の立て前上些かほこるに足ると見えて、近日中に傷の写真をとるのだそうです。何か統計をつくっていられる由です。
 気分は平らかですが、疲労は甚しい。外科的処置は傷がなおりかけると、適当な刺戟で肉も盛上らそうと、もう室内は勿論、すこし歩けと云われます。でもなかなか体が大儀で二三歩歩く位。腰椎をマヒさせたって、やっぱり全身にこたえているし。本当にくたびれかたがひどくて、本は勿論、手紙だってこれが二十四日以来初めてです。ぼんやり仰向いて臥ていて安心したつかれにまかせている。足かけ三年くされものをもっていたのですものね。そして、いつどこで爆発するかという懸念が絶えずあったし、爆発すれば手おくれになる場合が多いのだから、私は白状すれば、思いがけず病気で死ぬとすれば盲腸からの腹膜だと思っていた。ですから私は、いつ、どこで、そういう時に遭っても、あなたへの最後の挨拶の言葉だけはつたえたいと思って、ちゃんと書いて咲枝にずけてあったの、もう二年ほど前から。だってそうでしょう? こんなに互に熱心に生き、この世でめぐり会えた歓びを感じているのに、うれしかったとも云わずいなくなるなんて、承知出来ないことですもの。
 二十一日入院ときまったとき、あなた宛にあの手紙かいて、咲枝に万一私が根治[#「根治」に傍点]してしまったら「あれ」をそちらへ送るように、そうたのんで、それから又別に私たちの生活の事務的なことすっかり箇条書にして、なかなか二時間が忙しかった。今は、もうそういう「あの手紙」もさし当りは不用になったし、よかった。臥ていると、まだ小さい[#図6、「C」と逆向きの「C」がかみ合わさったような形の絵]こんな形の渦が見えるようで、それは生と死とで、短い時間のうちにキリキリと一廻りしたという感じがつよくあります。これは一種特別な感じ。手術をうけたりすると、誰でも感じるのかしら。切迫した何時間、その間にキリキリとこういう形で生と死が廻ったという感じ。
 手術が終った二十一日の夜は譫語《うわこと》が云いたくて困った。これもめずらしい経験です。半分意識しているのね、他の半分の意識が変に明るいようなサワサワしたような工合で、盛にうわことが云いたい気がするの。きっとあなたでもわきにいらしたら云ったに違いないと思います。意識してこらえたけれどもちょいちょい、いやよ、だとか何だとか云っていた由。今の疲労の種類は何だか分らないが、ともかく、何日でもまるで静かなところへ頭をつっこんで眠りつづけたいという欲望のように感じられて居ります。そちらの懐の中へ顔を押しこんで眠りたい、そういう工合。
 すっかり着ているものをはがれて、目かくしをされて、暖い空気の手術室の中で何か堅い台の上にねかされたとき、それは臥かされたよりころがされた感じで、非常に無力な異様な感じでした。今度はいろいろ珍しい経験をいたしました。あなたも手術で入院していらしたことがあるのね。この間うち下すった手紙では、私はいろいろにあなたが闘病の間に行っていらした工夫や努力や不如意の克服やらをはっきりと感じることが出来、深い感想があります。
 この手紙のあとは元日に又書きます。
 この疲労のために、傷の快癒よりも、全体のろのろと進行している形です。いそぎませんからどうぞ決して御心配なく。血液が清潔であること、糖もタン白も出ていないこと、こういう手術をするとそれらのことが随分仕合わせになります。きょうは九日目ですが本なんか一行もよまずです。急にバタバタ来て、本一つも入れてない。これからポツポツ。この病室は内庭に向って窓があって青空の下に檜葉《ひば》の梢と何かの葉のない枝が見えます。側台にバラが二輪とさち子さんのくれたシクラメンの鉢。ではこれでおやめ。どうか呉々お大切に。お茶かけアンモを上った頃つくのね、私は今年はアンモなし。傷によくないというから。ではこれで本当に今年のおしまいにいたします。



底本:「宮本百合子全集 第十九巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年2月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
※初出情報は、「獄中への手紙 一九四五年(昭和二十)」のファイル末に、一括して記載します。
※各手紙の冒頭の日付は、底本ではゴシック体で組まれています。
※底本巻末の注の内、宮本百合子自身が「十二年の手紙」(筑摩書房)編集時に付けたもの、もしくは手紙自体につけたものを「自注」として、通し番号を付して入力しました。
※「自注」は、それぞれの手紙の後に、2字下げで組み入れました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
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