キる。それから、何か特別の必要でおそくなるときは、(例えば三十日には是非音楽をききにゆきたい。十時にはかえれません)おそくなったのではなくて、確に自分でおそくしたのだから、そうとして次の晩でも早くねる。私には下らない弱気があって、例えば私の体のことでもこんなに考慮し、プランを与え方法を示して下さるのだから、一晩だっておそくならない方がいいという気があって、しかも、それなら断然おそくしないということは出来にくく、たまにおそくなる。すると、これこれでこの日はおそくしましたと云い切らず、ついおそくなっちゃってと云う。大変平凡です。何々なっちゃったということは元来好きでもないのだから、以来、はっきりいたします。下らない会や何かで夜更しをすることはしませんが、これからも時折の音楽会と林町ぐらいは十時をこすことになるでしょう。尤も一ヵ月に二度ぐらいでしょうが。それだけは、あらかじめ御承知下さい。マアよかろう、ということにしておいて下さい。手帳を見ると、九月十日に安田さんのところで診て貰ったのですね。十月・十一月とすこしは飛んだが、つづけた。
 勉強はほかの本に気を散らしていないから、大体五六時間から七時間あります、もっともそちらからのかえり、よそによる日は減るが。ちょびちょびでは身につかないし、読む吸収力が加速度に加わらないから、それは気をつけて居ります。オイゲン先生の終りの部につれて(第三篇)十八世紀の啓蒙家たちのこと、文学のことをもこれまでよりややまとまった形で学ぶことが出来て、大変愉快です。「永遠の理性」と考えられた(啓蒙家たちによって)ものの実質が、当時の進化しつつあった一定の層の悟性の理想化であり、その矛盾が、光輝ある発火を妙なところ、ナポレオンのポケットへもって行ったことなど、何と教えることが多いでしょう。
 啓蒙家たちのことは、文学におけるヒューマニズムの問題のあったとき、いろいろな人がちょいちょいふれたが、真に彼等の理性の本質にふれたものは記憶にない。それはとりも直さず、それをなし得るだけの現代の理性らしい理性がないということです。オイゲン先生は傍ら十五世紀から十八世紀にかけてのヨーロッパ文学史を展望させつつ、予定通り火曜日頃に終ります。そしたら、この間云っていらしたのにとりかかりましょう。
 キュリー夫人。私がエーヴの美学云々と云う表現で感じていたもの。バック
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