轣A翌年の(十年)の十月下旬まででした。上落合の家は、五月の二十日ぐらいまでしか持てなかった。上落合の家へ越した年の十二月初めに、夕刊で、市ヶ谷へいらしたことがわかった。その晩あわてて、着物買ったり何か栄さんとした。あの時分は落付かず。詩人の病気は益※[#二の字点、1−2−22]悪くなって来ていたし。仕事としては、バルザックの一寸した研究(リアリズムの解釈の誤った解説に盛につかわれていたから)小説「乳房」その他。この時分はまだ徳さんの現代文化社があったり『文学評論』がともかくあったりした時期。五月から十月下旬まで淀橋。この間に『冬を越す蕾』が出版されたわけです。翌年の三月二十五日? だったろうか、一応かえる迄に一月三十日に父が没した。その前後のことは別にいろいろの点からかかれていると思います。
 国が、家の主人となって、例えば戸塚夫妻、中野さん等来てくれても、一つ家に私がいるのがいやと云うのではないが、持ちこむものがいやなのね。一緒に食事するのがいやだと云ったりいろいろで、咲枝は板ばさみだし、私は我慢ならぬ。てっちゃんがかえったのは引越し前の冬だったでしょう。池さんの細君との間が破れたのもこの頃でしょう。
 目白へ家をさがした心持は、思い出一しおの故です。Sさんはその年の九月ごろだったか公判のために上京して、戸塚の下宿にいました。ちょいちょい出入りしていて、お金にこまり、ぜひ東京にいたいというので、私はすこし助ける意味で、新聞の切ぬきの整理をたのんだり、本のカードの整理をやって貰ったりして、十円までのお金あげていた。もとから智恵子さんを知っていたのだそうですね。そっちはそっちで進行していたわけです。家をうつるとき、あっちへ一緒になる迄、田舎の送金がなくなったからという理由で目白に来て、二月まで二ヵ月いた。二月に職業を見つけてアパートにうつり、それからこの八月結婚するまでズッとアパート。一月の終りか二月の初めごろ既に先の話は破れたのです。対手の人はこの家へ二度ぐらい来ています。その二度目ぐらいのとき、私がいつまでS子さんをここにおく気かときいたら、それは本人に云うとか云って、かえるの待っていて、ちょうど稲ちゃんが来ていて、変にきまずくて一座白けていたら、外出から戻ったS子さんをつれ出して、話をことわった由。
 この人は、それから一遍宮崎龍介の母を訪問したとか云って一寸
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