v、第3水準1−84−22]、久米など。女の方では瀧田さん時代の人俊子、千代、私、時雨など。いかにも東京会館向なり。蘇峰、如是閑、しきりに瀧田の思い出のなかに私の名を引き合いに出し、何だかてれてしまった。何も瀧田の人物鑑定眼を裏づけるに私だけをとり立てて云うには当らないのですからね。好意からとわかっているだけてれくさかった。
 かえりに俊子さんのところに一寸よって喋って、十二時になると円タクの流しがなくなりガレージから反対の方角に行くときは猛烈な価になるのであわててかえって来ました。
 ところで、うちのおひさ君、きのう日向に自分のふとんを干しました。ポンポコになっているのをかついで二階から降りてゆくから、おひささん、そのふとんで今夜早くグースーねるの考えるとうれしいだろう? と云ったら、ええ、うれしくて黙って居たいようだ、と云った。何という感情表現でしょう。実にその気持端的にわかる。私は非常に感服しました。
 きょうはこれから勉強して、来るべき文学について何か書く。これは一口に云えぬ題です。文学に近頃場所をとりはじめているルポルタージュというもののリアリティーが来るべき時代の目でどう見られるか、又ルポルタージュの真価とリアリスムの問題もあり、そのことをすこしつきつめて見て見たいと思います。ルポルタージュというのは若干の地方色と抽象名詞の羅列ではない筈のものですから。直さんなどこの理解に於て房雄君と全く同じである。
 九月一日の『ダイヤモンド』明日お送りします 松山さんの絵の本も。松山さんは満州旅行をしてスケッチをいくつか描き須山計一さんと展覧会をしました。私は月賦でチチハル辺の醤油屋の店をかいた30[#「30」は縦中横]円の六号をとり、今机の右手の壁にかけてあります。松山さんまだ下手です。それでも好意のもてる絵で、眺めて感じる親しい未熟さ(技術上の)が何だか却って私を自分の仕事に努力させるような面白さがあります。画面に雰囲気を出すということは何とむずかしいのでしょうね。それにこの画家はそういう点では角度がまだ鋭くない。性格的にも。松山さんは人物をもっと勉強して私を描きたいのだって。私もいやではないが、私の生きている歓びと苦しさの綯《な》い交った光輝というような核心的なものが、現在の腕ではつかまるまい。単純にしっかりさ[#「しっかりさ」に傍点]などと抽出されたらまったく降参ですから。ただしっかりものの女なんて※[#感嘆符二つ、1−8−75] 松山さんの絵が上達するのをたのしみにして待って居りましょう。
 島田と野原の方のこと、二三日のうちにとりはからいます。本当にいい折でしょう。島田にしろ達ちゃんが召集をうければやはり人手を以前よりおやといにならなければならないのだし。
 野原と島田とは同額にします。50[#「50」は縦中横]ぐらい減らしたって同じこと故。まあ私たちとして一生に一度のことでしょうからね。それから、これは女房じみたお願いですが、どうか島田へ手紙をおかき下さい。今度のことは私たちが度々出来ないことだから今しておくのだということをはっきり御納得ゆかせておいて下さい。私はいろいろな気持からこの間うち島田へ出来るだけ骨を折っている。作家は雑作なく大した金をとるそうな、というお考えが何となく出来ていて、実はこの間行ったときも感じて苦しかった。私は説明したり、ありがたがって貰ったりはしたくないから笑っているだけですが。どうかお願。私のこの心持もあなたには勿論おわかりなのだから。よろしくお願いいたします。こういう形で出て来ると、同じ〔後欠〕

 十一月一日朝 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十一月一日  第三十五信。
 この間お目にかかったときから何か心にのこっているものがあっていろいろ考え、あなたのお体のことについてですが、床に入る前この手紙を書く気になりました。
 この間のときも、あなたはどっちかというと私の心持を安めよう、不安を与えまい、大局的に悠々《ゆうゆう》としてするべき勉強をしているようにと心にかけて御自分の健康のこともお話しでした。私もそのお気持はよくわかるしいろいろだが、不図考えて、私はいつもあなたの体の悪いときを過ぎてからだけそのことをきいているということについて非常にびっくりしました。例えば夏に腸出血をしたということを初めておききしたのは十月十五日頃でした。その前から永らく便に膿《のう》が混っていたことを伺ったのは先日がはじめてであったと思います。そしてそういう病状は既に年のはじまり頃からあったのでしょう。
 細かい変化、熱の上下、そういうことは勿論大局的に眺め見とおしてゆかなければならないが、そういう、何か本質的な変りについて、私がそのときどきに知らなかったということは、決して今日の私をも安心せしめません。あなたとしてそれらを持って動じぬことで自然な恢復力を蓄積していらっしゃることは当然のことであるけれども、私が其を刻々に知らされないことは、考えて見れば、あまり特別です。あなたからしか謂わばあなたの体のリアリティーは知ることが出来ない。私が根もとの安心というか持久的なものはたっぷりもっているということがよくわかっていただけているなら、私は常に具体的にあなたの体の事情について知っていて、私としてするべき様々のことをしたい。この間もお話ししたように、互の間にある安らかさというものの能動的な具体性はあるのですもの。例えどんな小さいことでも。どんな一寸したことでも。私は古風なロマン主義者でも巫女《みこ》でもないから、最も大切なものをアブラハムの祭壇にただのせて主観を満足させてはいられない。
 どうかこれから出血でもあったり、何か変ったことがあったらきっと電報を下さい。きっと。私が右往左往的心痛をするだろうという風な御心配は本当に無用です。私は逆から云えばあなたに安心されている証左としてもそのようにして頂く権利があると思うの。よほど前、咲枝に下すったお手紙で、ユリの体についても何についても最も悪い場合のことでも事実を知らすようにと仰云っていたでしょう? あの心持。分って下さるでしょう? 劬《いた》わられ、知らされない。それは有難く、うれしい。でもくちおしいというようなことがないとどうして云えましょう。私はこれまで割合多岐な現実を見て、それを正当に理解し耐え、処する道を見出そうとする努力には次第につよめられて来ている。私たちの生活の貴重な収穫として。ですから、私がはっとばかりにとりのぼせてはしまわないことが確かなら、どうぞもっとそのときそのときあることを教えて下さい。これはあなたとして何もさしさわりはおありにならないことです。そうして下すったからと云って、あなたの何ものもよわりはしない。大変面倒くさいことでしょうか? 或はそういう様々の手続きが却ってあなたの体にさわる風な事情でしょうか。もしそうならば、ですがさもなければどうかこの希望をかなえる約束をして下さい。却って私は安堵することが出来るだろうと思います。私はあんまり我ままな女房ではないでしょう? だからその承認として、こういう指きりをして下さい。もしお願いがわがままだったらそれでもかまわない、やっぱり私は私の心にあるこれほどの愛情が当然に必要とする具体性としてこのゲンマンの指を出します。ではこのこと、きっと。

 十一月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(演劇「土」の舞台写真の絵はがき)〕

 十一月十日。八日の雨の中を、うちのおひささん同道「土」長塚節を見ました。演出岡倉士郎。小説「土」にはない節自身を出しているが、高志の進歩的性格は漠然としている。おつぎ山本安英。勘次薄田。平造本庄。これは勘次が平造のキビの穂を苅って見つかったところ。
 大体面白く見られました。満員。壽夫さんに逢いました。呉々よろしくとのことでした。

 十一月十一日夜 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十一月十一日の夜。 第三十六信
(きょうはじめて勉強部屋へ火鉢を入れました。今鉄びんの湯が煮えたっていい音を立てている、但しこの湯はのめず。咲枝がさびさせてしまったのを持って来たのだから。オ薯《いも》のシッポでも煮てアクを抜カネバナラヌ)
 十一月二日のお手紙がけさつきました。この頃は先のうち、一週に一度ずつ日曜日か月曜ときめて待っていた心持はなくなって居るけれども、やはり朝第一に、ホーサンで眼を洗うより先に、テーブルの手紙束をひっくるかえすのを見ると、結局絶えず待っているということになる。慢性なり。
 秋晴れのような明るさと澄んだ力のある手紙をいただいて大変大変うれしい。ありがとう。古い頃書いたものをそういう風に読んでいただいて、何と云っていいかしら。頬っぺたの両方へ、小さい灯がついたような感じです。それにつけても、『冬を越す蕾』、『乳房』、『昼夜随筆』そしてこの頃書いているものを読んでほしいと思う。あなたに読んでいただくことが出来ない、そういう事情が、私を自分の仕事に向っておろそかならざる心持にしているというのは何と面白い関係でしょう。体はこの頃よく気をつけているし、すこしゆとりをつけているので大分ましになりました。残暑頃と秋の初めはへばっていたが。長い小説は、第一が「雑沓」80[#「80」は縦中横]枚、「海流」97[#「97」は縦中横]枚、「道づれ」65[#「65」は縦中横]で、私のプランの第一の部分の三分の二ばかり来ました。この正月『文芸』にのこりの部分をすっかりのせてしまいたいと思ったが、三笠から出ている『発達史日本講座』の現代に今日の文学50[#「50」は縦中横]枚を十月一杯までにかくべきだったのをのばしているので次の部分は二月頃にするか三月にするかします。
 第一、第二、第三部になる予定です。 1931 頃から '36 位に及ぶ。私は昔云っていたようにこの小説では、外面的な事件を主とせず、社会の各層の典型的な諸事情と性格と歴史の波との関係を描き出してゆきたいのです。恐らく一遍書き終って随分手を入れなければなりますまい。しかも、室生犀星、佐藤春夫、中村武羅夫というような人々は、私の小説を見ると持病のゼン息が起ったり、はきそうになったりするのですって。お互様に辛いことです。
 小説は長いもののつづきのほかに、「築地河岸」25[#「25」は縦中横]と「鏡の中の月」18[#「18」は縦中横]とをかいた。今年はそれでも、すこしは小説を書いた方です。段々かけてくる。来年はもっと小説に重点をおきたいのですが、短いいろいろの評論風なものも、自分の趣向からばかりでなくやはり書く方がいいと思い(金のことに非ず)閉口です。十月には多分もう書いて上げたと思いますが、『新女苑』(祭日ならざる日々)12[#「12」は縦中横]、『婦公』20[#「20」は縦中横]、別に15[#「15」は縦中横]あとこまかい文芸的感想30[#「30」は縦中横]ばかり。本月はその三笠の一仕事を片づけたらあと短い小説20[#「20」は縦中横]〜30[#「30」は縦中横]をかいて、あとはすっかり長い方のつづき。
「伸子」をかいた頃を考えると夢のよう。三月に一度ぐらいの割で60[#「60」は縦中横]枚だの九十枚だのとポツリポツリ書いていた。
 日本ペンクラブというのが十年から出来ていることを御存じでしょうか。会長藤村、教授翻訳家出版関係者、作家詩人という面々です。大変行儀がよくてキュークツであるところです。私がそこの会員にされました。夏頃そこと外務省とで女の作家の作品をドイツ語にするので送るのだそうで林、野上、宇野、私で、私は「心の河」。これはあなたのよく云っていらっしゃる『白い蚊帖』に収めるためにまとめた短篇の中の一つです。自分でこまかいことは記憶しない。そんなに古いもの。
 あなたのお体のこと。慣れた強さの生じることもよくわかります。強靱であることもわかる。でも、この前、私が速達であげた手紙の約束は守って下さるでしょう? 私がくよつく故ではありません。それも分って下さるわね。お母さん方を御
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