栫A二階の壁に向け、南を左にして斜《はす》かいの西日をカーテンで遮るようにした部屋の机のところに、全く快適な柔かい光線がさしている。ゆうべから、夜中にもおきて書きたかった手紙を、もう迚ものばして居られない。光線も、あたりの静かさも私の心にある熱もすべてが紙に私を吸いよせる。(何だか霊感的な手紙でもあるような勿体《もったい》ぶりかた!)
 さて、御気分はいかが? 私の目にはこの間の御様子があざやかであるから、何だかあれからずっとあの調子でいらっしゃるように思えます。この手紙を御覧になってすこししたらまたお目にかかるわけです。私は十月の五六日までこれから死物狂いなの。小説です。文芸。『文芸』では長篇をずっと年四回ぐらいずつのせることにしました。私は云っているの、のせ切って御覧なさい、文芸は一つの功績をのこすから、そのように私もがんばってよいものにするからと。大体見とおしがついてうれしい。但金には殆どならない。今日長篇をのせ切るのは、結局文芸専門のものでしょう。仕事がまとまればよいとして考えて居ります。
 この間お目にかかったとき、実は私一つ大変な秘密を抱いてひとりでホクついていたのです。自分から嬉しい一種の感動でつい口へ出しそうになったが、やっと辛抱してあなたのお誕生日の祝いまでそっとしておきました。先《せん》、お互に話していた名のことね。十月から本名に全部統一します。そのことを親しい連中にも話した。長篇が終って本にするときとも考えていたが、この長い大仕掛な仕事が終るまでと何故のばすのか、自分の心持に必然がなくなった。それでつまり十一月号の書いたものすべてから宮本百合子です。あなた又ユリバカとお笑いになるでしょう。でもこれは全く私の生活の感情のきわめて自然な流れかたなのだから、私は自分でもうれしく、特に私がこの半年の間に、いろいろの心持を歩んで、ここへ来ていることそのことがうれしい。だから今度はあなたからお断りをくっても、私はでもどうぞという工合なの。ですからどうぞ。私は結局はこれまでの年々に何かの形であなたのお誕生を記念して来た、その中で外見は一番形式的のようで、実質的なおくりものの出来たのは今年であると思います。そして、そのような可能を与えて下すったお礼を心から申します。仕事から云っても私はこういう成長に価していることの確信があります。私たちは字を書いたり、短い時間に喋ったり、そんな形で互の心持をつたえなければならないのだけれども、こう云っている私の心持のあなたへの全くの近さ、ふれ工合。それを字でかくことはお話のほかにむずかしい。おお、私はここに、こんな工合にしてものを云っているのに。
 私がこんなに歓びの感情を披瀝《ひれき》するのは、あなたに唐突でしょうか。そうではない。でも、私のこの心持がわかるであろうか。このよろこびの中には何とも云えず新鮮で初々しいものがある。又新しい青い青い月の光がそこにさして来ている。私は書きながら涙をこぼすのよ。人生というものは、其を深く深く愛せば愛すほど、何と次次へと貴重なおくりものを私たちに与えるのでしょう。この私たちの獲ものが食べられるもので、あなたのおなかへ入って、すっかり体の滋養になったらさぞさぞいいだろうのに。ではこの手紙はこれでおやめ。私のおくることの出来るあらゆる挨拶であなたを包みつつ。

 九月二十五日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(鍋井克之筆「二筋の川のある村」の絵はがき)〕

 九月二十五日、文房堂で買った二科のエハガキ。この画は本当にこういうところがあったのでしょうか。夢でしょうか。そう思わせるところにこの画家のこの絵での狙いどころがあたったわけと云うべきか。昔このひとは遙かに精悍でありました。これは芝居のや〓〓をもったかきわりの如し。もう一つの東郷湖という風景も同じように或趣味に堕している弱さがある。

 九月二十五日の夜。 〔向井潤吉筆「伐採の人々」の絵はがき〕
 この絵を眺めていると、コムポジションを一寸工夫するともっと生活の雰囲気とスケールのある絵になると感じられますね。もっとも前景の一かたまりの人間と、その奥の木を引っぱる一列の人間との間隔が、雰囲気的にアイマイにしか把握されていない、だからクシャとしている。実物は果していかがや。まだ見て居りません。十月最後に見られれば見ます。御体をお大事に。

 九月二十八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(鍋井克之筆「梅雨時の東郷湖」の絵はがき)〕

 九月二十八日夜。
 はじめの頃の単行本を、製本しなおしてお送りいたします。すっかり古くなってこわれてしまっているから。鎌倉へゆくと頼朝公御六歳のしゃりこうべというのがある。「一つの芽生」などというのを見ると、自分の御六歳のしゃりこうべのようで、フーフー。でもその小猿のしゃりこうべのようなものもお目にかけます。何卒《なにとぞ》幸に御笑殺下さい。

 九月二十八日夜十二時。 〔宮本三郎筆「牛を牽く女」の絵はがき〕
 大変おそく書いて、しかられそうであるけれど、今、きょうの分だけ仕事を終って比較的満足に行って、一寸あなたとお喋りがしたい心持。お茶を一緒にのみたいとき。原稿紙の上に、こまかい例の私の字でごしゃごしゃと(一)[#「(一)」は縦中横](二)[#「(二)」は縦中横]という下に書きこんであって、そこから様々の情景と人々の生活が歴史の中に浮上って来る。何とたのしいでしょう。私は『あらくれ』や、『新女苑』や『婦公』に、新しい署名のものを送って、たっぷりして仕事している。

 十月一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(国枝金三筆「松林」の絵はがき)〕

 十月一日の夜。仕事が熱をもって進んでいる。雨だれの音。鶴さんが工合をわるくして心配しましたが、もうややよろしいらしい。あなたはいかがでしょうか。雨つづきで気分がさっぱりなさらないでしょう。
 この仕事を五日の午《ひる》までに終って、六日はお目にかかりにゆくのを御褒美のようにたのしみにして、せっせとやっている。ミシェルというフランス人がモンパルノという小説をかき、今大家であるモジリアニが一枚たった六フランでパン代に売った絵が一年後一万一千フランで売られたことなどかいていて、いろいろ考えさせます。

 十月九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 広島駅より(広島駅の絵はがき)〕

 十月九日朝五時四十分。広島でののりかえ。このあたりでは構内のランプもすっかりくらくなっています。兵隊さんがこの食堂にも沢山。雨はやんでいます。七日の夜は仕事を片づけるために眠れなかったので、八日の三時に立ったときはフラフラ。十時頃までウトウトしていて、寝台が出来たので五時間ばかりよく眠りました。馴れたのでこの前より近いように思います。島田でびっくりなさいましょう。

 十月十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県熊毛郡島田村より(封書)〕

 よく晴れたお天気。今お父さんはお休み中。多賀ちゃんがおひるの支度をしている。お母さんはどこへかお姿が見えない。私は店で新聞をよんでバットを一つ売って、今上ってきてこれを書いているところ。
 きのう八時四十何分かについて、改札のところを見たら多賀ちゃんがでていました。小さいトランクと中村屋のおまんじゅうを入れた風呂敷包みとをもって出たら、きょうは防空演習だからといって、いきなり自動車にのせられてしまった。達ちゃん、消防の服装(ポンプの小屋へ)で出ていたそうです。ちっともわからなかった。
 お父さんは大よろこびでいらっしゃいます。思ったよりいい顔の色をしていらっしゃるし、舌が実にきれいでびっくりするようです。夏は何しろひどい暑気だったので心臓が苦しくおなりになったそうですが、今は御飯も大きいお茶碗に二つ(おかゆ)をあがります。間食はなさらず。春のときからみると、お体は軽くおなりになったし、気分も自発的なところが大分減っていらっしゃいます。それでも昨夜私が何か云ってふざけたら皆笑い出して、お父さんも、一緒に大笑いしていらしった。気分はやはり非常におだやかです。お母さんが、顕治の知っている頃のお父さんじゃったらどんな我儘《わがまま》云うてじゃろと思っているだろうとおっしゃっています。おとなしい、いろいろ気になさらない。すこし、お母さんや内輪のものにはカンシャクをお起しになる位のことです。御気分が平らなのは何よりです。きょうこれから野原へお墓参りに行って来ます。野原の家の方は四百五十円ばかり不足しているかぎりで家と土地とが十分のこる由です。かり手がついて来るから家は小学の先生にでもかして、おばさんや冨美ちゃんたちは富雄さんの方へ引うつって世帯を一つにしようという計画とみえます。富雄さんのこれまでいた店が駄目になって(つぶれた)日米証券へ入っている様子です。
 こちらもずっと平穏にやっていらっしゃいます。大していいということはない。やはり不景気だそうです。でも手堅くやっていらっしゃるから。――隆治さんは今年は二十歳なのですね。この六月かにケンサがあるのね。私は間違って一月に入営かと思って居りました。春のとき何だかそんな風に間違って覚えて来てしまったのです。六月にケンサならまだ間があります。
 あなたが中学の一年生だったとき、よくつれ立って通った中村さんという人が戦死されました由。河村さん[自注18]のところでは夜業つづき。島田から四十二人一時に出て、総体では七八十人の由です。野原からかえったらこのつづきをまたかきます。おお眠い。けさは十時まで眠ったのにあたりが静かで、気がのんびりするものだから、眠い眠い。つかれがでてきてしまったのです。きっと。

 きょうは十一日。小春日和。
 きのう野原からは夜八時半頃かえりました。皆よろこんでいて、くれぐれあなたによろしくとのことでした。今あの家には小母さんと冨美ちゃんと河村さん(小母さんの弟さん)とその姪という方とです。河村さんは下松《くだまつ》の方につとめ口が出来て、あっちに家が見つかり次第ゆく由。下松は借家払底で、一畳一円で家がないそうです。河村さん、あなたのお体について心配していました。くれぐれもお大事にと。
 野原の小母さんは家がのこるので本当におよろこびです。私たちもよかったと思います。小母さん曰く、いつか二人でかえって来てくれてもとめるところがあってうれしい、と。ハモ[#「ハモ」に傍点]の御馳走になったりしてお墓詣りをして、かえりに切符をかって来たら、お母さん、もし都合がついたら琴平さん[自注19]へ詣でて来たいというお話です。来年の秋でもゆっくりおともしましょうと話していたのですが、もし達ちゃんが召集されでもしたらというお気持もあるので、急にお思い立ちになったのでしょう。今時間表をしらべているところです。
 お母さんも永年のお疲れで、この間腎盂炎をおやりになってから、すっかり御全快ではなく、台所の仕事などでも過労をなさるといけない御様子です。今は多賀ちゃんが手つだっているから大丈夫ですが、きのうも野原へ行って、すっかり多賀ちゃんに手伝って貰うようよくたのんでおきました。
 春からみると何か全体がしずかになっている。お母さんは余りこれまで御丈夫でなかったし、御無理だったから、すこしこの際お労《いたわ》りになる方がよいのです。そちらもこんなにいい天気でしょうか。どうかお元気に。若い連中も元気にやって居りますから何よりです。では又。

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[自注18]河村さん――島田の宮本の家の向いの一家で、病父がその人のリヤカーにのせてもらって相撲や芝居見物に行ったこともある。
[自注19]琴平さん――讚岐の琴平神宮。
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 十月十二日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 山口県島田より(琴平名所の金比羅高台より讚岐富士を望む絵はがき)〕

 十月十二日。こういう景色が山の頂上から見晴せるわけだったのですが、雨で濛々《もうもう》。平野の上にもくり、もくりと山が立っている、この地方の眺めは或特色があります。屋根を藁《わら》でふいている、その葺きかたが柔かくて特別な線
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