安心させ申すために私がいく分心をつかっていることもわかって下さっている。
 野原島田へお送りするについてのお願い、あれももうお読み下すったかしら。
 いろいろの私たちの生活の悲喜をひっくるめて、とにかく私はいい仕事がしたい。とにかく私たちの仕事であって、他の何人のでもないという血と熱との通っている仕事をしたい。小説でも。評論でも。私たちが素質的にもっているものの価値というものあるとすれば、其は要するにこういう望みを忘れることが出来ないで、そのために努力しつづけてゆく気力が即その価値であるとでも云えるかもしれない。私の芸術家としての困難は、人間的生活経験の内容が複雑豊富でそれをこなす技量がカツカツであるという点です。生活内容に応じては技量があまっていた時代、今はその逆の時代。それに私は何だか持ちものが、これまでの所謂小説家とちがっているのだが、それが芸術的完成にまで到達していない、美しく素晴らしく脱皮し切っていない、そういう実に興味深い未知数が現在あるのです。稲子はいつもよい批評家であり鼓舞者で、私は注意ぶかくその言葉を考えながら、謂わば自分の発掘をしているようなところです。その点からでもこの長篇は重大な意味をもっているわけです。太郎のことはこの次、別に太郎篇をあげます。緑郎はついたということが分っただけ。あさってあたりお目にかかりに行きますが。この手紙では沢山書きのこしてしまった。本当に度々手紙を頂けるなら、実に、うれしい。

 十一月十六日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 目白より(封書)〕

 十一月十六日 晴  第三十六信
 きょうは、おなかのわるい日の手紙。どうかして、おなかの工合がわるくて、今日お目にかかりに行こうとしていたのに、それが出来ず。その代りにこの短いお喋りをいたします。
『文芸首都』にこの頃の文学の一つのあらわれとしてルポルタージュのことについてかき、国文学の専門の雑誌に二十枚ばかりの鴎外、漱石、荷風の文学にあらわれている婦人観をかき、短い小説をかく前の気分できのうは珍しく文展見物をしました。戸塚の夫妻、もう一人田舎のひとと私。月曜日は鑑賞日というので一円。それを知らず私が細君と田舎のひとの分を出すつもりで行ったのであと30[#「30」は縦中横]銭しかのこらず。大笑い。
 文展ではいろいろ駄作悪作の中にやはり面白いものあり。栖鳳、木谷千種、清方など、文学に連関しての問題を我々に与え大いに愉快でした。栖鳳本年は何匹も家鴨《あひる》の子が遊んでいるところを描き、(二双屏風)金の箔が地一杯にとばしてある。久米正雄、七十歳の栖鳳が老境で若さを愛す心持流露していると、うまい批評をしたが、金箔のことについては効果上あるがよいかないがよいかと書いていた。私達三人の結論は、この画に金箔は重要な画面の一つの支え重厚な一要素となっているのであって家鴨だけであったら決して効果は出ないし、弱くなるし破綻を生じることを観破しました。栖鳳の画の価を考え、それをつりあげたからくりなど考えると虫がすかぬが、この老爺相当のものである。自身の芸術の弱い部分を賢くプラスに転化させる大なる才覚と胆力とを有している。これはやはり相当なものです。久米の芸術境が批評にあらわれ、栖鳳フフンと思ったであろう。いずれエハガキをお目にかけましょう。きのうは何しろ30[#「30」は縦中横]銭だったので。
 清方は鰯《いわし》という題の小さいものであるが、一葉の小説の情景です。溝板カタカタと踏みならして云々。長屋の水口でおかみさんが魚屋と云ってもぼてふりから鰯を買っているところ、水口の描写、[#図2、「のり」に丸囲みの手書き文字。「り」は小さく頭の部分が「の」の下隙間に入る]と書いた札の下っている隣家の様子、なかなかリアリスティックなのですが、中心になるおかみさんがこの家のおかみとして※[#「藹」の「言」に代えて「月」」、第3水準1−91−26]《ろう》たけていすぎるのです。「一言に云えば背がすらりとしていすぎるんだよ」稲公の言。それ者あがりとしても生活が滲みついていず、「築地」の絵(知っていらっしゃったかしら。中年のいかにも粋な女が黒ちりめんの羽織で一寸しなをして立っているところ)が浮いていて、甘く且つ通俗になっている。清方の通俗性、插画性は、或マンネリスムの美の内容にある。随筆などにもこれは出ている。いつも情景を鏡花、一葉、荷風、万太郎で。これもお目にかけましょう。
 荷風の「※[#「さんずい+墨」、第3水準1−87−25]東綺譚」は本年中の傑作と云われています。それについてハイと云えるところと云えぬところとある。すこし彼の作品をよみ、いろいろ感想もあるが、私はふと里見※[#「弓+享」、第3水準1−84−22]と比較して見て面白く思いました。※[#「弓+享」、第3水準
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