ィ母さんに伺ったお返事が今ついたので詳しく申上げます。
 お母様の書かれている順に。
 二十五年前、「商売の失敗野原の信吉さんのことで」三千円の頼母子《たのもし》。年百二十円の掛金、元は去る七月十一日に全部すむ。抵当として野原の家屋敷、島田の家が入っていた。
 其後十三四年前に又二号抵当で一万五千円の頼母子。一万五千円の中には野原の借金も相当あったが、「いつの間にか野原の不動産及び家屋敷が全部信吉の名儀に書きかえられていました」、父上がお怒りになったところ、立会人二人が入って、年百十五円の頼母子を二十五年間にかけてすまして呉れよと書きものを入れました。もし返掛しないときは全部不動産は兄へかえすこと。
 二三年は野原でもかけたが、その後はかけず、島田で九回まで年六百円をかけ、その後父上の御病気などの事情から頼母子側で抵当を処分して整理することになったが、兼重萬次郎が心配人に入り、三千円の一時返掛で話がきまり、その負担額を、野原は五百坪もあるから一千六百円島田一千四百円ということになり、この三千円は兼重さんが出した。三号抵当に入っていたのでこれは百八十円、世話人その他の費用百五十円。島田の分は合計千八百円以上の負担となった。これは兼重へ追々かえすことにして頼母子は片づいた。
 野原の頼母子の負担は一千六百円ですが、ほかに自分としての借金が利子とも三千円位あって、これも兼重にかりている。土地は時価四千五百円位。買手がつけば一千五百円ぐらい浮いて、本家の家屋敷ぐらいは保てる。兼重も熱心に買手をさがしているというわけです。
 Tさんの私たちへの情愛の示しかたについてなど、私は自分の心持は別に申しませんが、この間島田へ行ったときは、お母さんもやっぱりここまで詳しくはお話し下さいませんでした。
 お母さんは、事情をあなたが御存じないことを知っているTさんとして、貴方に向っていろいろ事実を歪めることについて御立腹です。そのお気持には私も自然な同感があるわけです。
 島田は頼母子からは自由になっているが、兼重という爺さんにはまだ相当の責任があるわけなのですね。この点も春にはぼんやりしていた。恩給はすっかりお手元に戻っているのですが。
 あなたが全体の事情に対して正当な判断をなさることはわかっているから、私はこの手紙はこれでおやめにします。
 猶おばさんからのお手紙で黒檀の仏壇は、かね
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