これはおかしいことです。
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[自注14]ペシコフ爺さん――マクシム・ゴーリキーのこと。ゴーリキーと書くと消された。
[自注15]木星社から出た本――宮本顕治『文芸評論』。
[自注16]家も冬までには建て直して小ぢんまり、文化的にする由――住宅の改造その他すべては空想におわった。
[自注17]大変嬉しい計画――親孝行の計画も財政不如意で今日まで実現していない。
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八月二十日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(スキーの絵はがき)〕
八月二十日。今日「夜明け前」の後篇とロンドンの「ホワイト・フアング」の訳とドーデエの「ジャック」を入れます。「白い牙」は昔枯川の訳があったが、お読みになりましたろうか。しかし心持のよいものだからもう一度でもよいでしょう。ヴォルフの写真集はお手に入りましたか。ヴォルフが細君などの入ったものをとり、集団の美を把えぬところは一つの特長ですね。しかしライカカメラの技術としては最高の由。今夜は鈴子さんが国へかえるので戸塚の夜店を歩き鈴虫を買ってかえったところ、今もって鳴かぬ、雄ではないのだろう雌だろう。そういうことなら口惜しいけれど可哀そうだから捨てない。そんな話をして、私がこれは随筆になると云ったらスエ子曰ク「吉屋さんものね」。お体をお大切に。夜具はいかがでしょうか。
今やっと鈴虫が鳴きはじめました。野生な声でケチくさくて可愛らしい。今、私が机に向って坐っている。スエ子がわきへ小さい椅子をもって来ていろいろ話して居ります。
八月二十七日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
八月十八日夕方から。第七信。
この紙は、型が小さくてぽっこり四角くなって何だか窮屈めいて居りますね。大きい紙にたっぷり大きく書いた字。それはきっと御覧になって心持がよいだろうと思いますが、書くとついこまかくなる、段々こまかく粒々になってとけ込んで行くような工合になる、面白いものです。時々は字をかかないで音でたよりをあげたい位です。貴方が音譜をおよみにならないのは、何と残念でしょう。
あなたの窓から見えるものは何でしょう、空、電信柱、雀、樹の梢、それから何でしょう? 花はあるかしら。この頃きっと随分空を御覧になるでしょう。空は時々海に似て、よく眺め入ると体が浮いてしまうでしょう? 流れてゆくでしょう? 私はこの感じはよく知って居ります。だが果してそれだけの面積が見えるか? 安積の夕焼空の色彩の燃える美しさは驚くばかりです。太郎はどんな風にあの夕焼空の下をヨタヨタ歩いているでしょうか。
十九日の昼。
机に向っている。うしろから涼風が入って来る。仕事にとりかかる一寸前。昨夜鶴さんが保田からかえって来て、すっかり皮膚をやいて皮をはがしてかえって来ました。「己《おれ》は顔が貧弱だから黒い方がいいね。どうもそうらしい。」そういう意見で、得意そうでした。一昨日は重治さんのところで午後を暮しました。栄さん夫婦が保田へゆく。旅費はある。でもあっちでね、というのでお米一俵送りました。面白いでしょう? 徳さんがかえって来たらあすこの夫婦も行くことになっているのですが、どうもまだいつかえるか分らないので――そのうち、秋になってしまう。
緑郎が今軽井沢の演奏会からかえって来ました。外国のひとが主に聴いたが、リズムのはっきりしたものが外国人には分ると云っていた、これは面白い点ですね。机の上には寒暖計があり。只今八十度強です。私は仕事部屋に、寒暖計だの湿度計だの磁石だのよく切れるハサミ、ナイフだの欲しい。今は寒暖計だけ。こういう程度に直接生活的な器は何だか生活慾を刺戟していい心持です。ところが時計はチクタクの大きく聴えるのなど大きらいです。あの夏になると眠りがちな時計を目立たぬところへ置いて安心しているから可笑しい。でも(エジソンでも時計はきらいでしたそうですからね)仕事の速度というか、進み工合というか、そういうものが結局二十四時間を計っているのだから。
コスモスの花瓶《かびん》にホンのすこしアスピリンをいれました。ぐったりしたから。利くかしら? もとスウィートピーにアスピリンをやったら、すっかり花が上を向いて紙細工のようになってうんざりしたことがあった。
この頃の小説の題は皆一凝りも二凝りもこって居ます。高見順の「起承転々」「見たざま」村山知義の「獣神」、高見順は説話体というものの親玉なり。それから「物慾」とか「情慾」とかそういう傾向の。高見順という作家は「毅然たる荒廃」を主張しているそうですが、バーや女給やデカダンスの中では毅然たるものが発生しにくいし他に生活はないし、背骨が立たぬから説話体をこね上げたらし。解子さんなどこういう才能の跳梁《ちょうりょう》に「私は小説を書いてゆけるかしら」とききに来られました。作家の生活の張りの難しさを深く感じました。書いていると限りなし。ではこれで、この紙をどけ下から原稿紙を現してはじめます。「私の大学」の部を。シャパロフと並行に。面白い仕事です。ガスケル夫人は、シャロッテ・ブロンテの伝記を書いたが、其はイギリスの(十九世紀)文学的業績中伝記文学の傑作だそうです。
二十二日の夜中。
雨が降っている。疲れて、しかし十分働いた満足の感じ。汗が体に滲《にじ》み出している。鈴虫のことについて書いたエハガキは到着いたしましたか? その鈴虫が今しきりに声を張って鳴いて居ります。おお、何とくたびれたことでしょう。そして、心が微笑している。一種の幸福さ。――
これを書いて感じたことですが、私はこれまでの――昨年五月十日迄の手紙では、こういう風に私の生活、仕事の中からの直接の響きのままの手紙を書きませんでしたね。手紙として整理して書いて居りましたね。おや、どこかでボーが鳴っている。
――○――
二十三日、日曜日です。
ロンドンのローヤル・ソサエティー・オヴ・ブリティッシュ・アカデミーから、父の閲歴について問い合わせが来て、それに答える下書を国男が書き二階の私のところへ持って来た。父の生れた年は明治元年(一八六八)でペシコフと同年でした。只一八六八でいいか、A・Dと加えるかというので大笑いをやって父の仕事のリストのところへ来ると、私は何か一種の興奮を感じました。父は沢山の仕事をして居ります。いろいろ。実に沢山の建物をのこしている。子供達に対して御承知の通りのひとであった父がこれ丈の業績を蓄積している。そのことが私を深く感動させます。父は仕事を愛していた。よく食堂のテーブルのところで方眼紙(?)のノートを出していろいろプランを描いて居りました。尤も父の持っていたスタイルは私の好みとは大変異っていましたが。そして、私にのこされた愛情のこもった遺物[自注18]は、私の家を建ててくれると云ってよろこんで楽しそうに十ばかりのいろんな小さい家のプランを書いた二枚のホーガン紙です。一番気に入っていたのに赤インクで(1)とノートがあり、そこには私の部屋のほかにもう一つの部屋があって、スペーア・ルーム or[#「or」は縦中横]・mと書いてあります。私は自分があすこにいた時又父がなくなったとき、そういう家が実際に建ったりしないで何とよかったろうかと思いました。(プランは昨年五月より少し前に描いたのです)私は自分の体を入れておく場所については、最も単純なのを好くようになりました。元からそうであったが猶そうなったから。いろいろの思い出、伝記、保存しなければならぬ責任、そういうものを欲しません。
(同じ夜)
私は或一人の作家の生涯について二百五十枚ばかりの勉強をするのだと思っていたところ、単に伝記を書く以上の収穫が、現在あることをつよくはっきり感じ出しました。何かが私の内部で芽をふくらしい。そういう予感。
二十七日の午後。
さあ、きょうはこれを書いてこの手紙は出すことに致しましょう。きのうはゴーゴリの「タラスブリバ」の試写を見て面白かったし又いろいろの感想もありました。国男は安積へゆき、家は至ってしずかになりました。家へかえってからはじめて音[#「音」に傍点]のない生活です。大変楽です。頭がよく働く。(今短い感想を書いたところ)鶴さん夫婦は日にやけていずれもまっくろです。私はその傍にゆくと心持がわるいほど白い。きょうも毛布のことが電話で通じられました。すぐ送ります。私は大変お手紙を楽しみにして、着くのを待って居ります。
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[自注18]愛情のこもった遺物――建築家であった百合子の父は一九三五年ごろ、百合子の住む家の設計図をいくとおりも作った。百合子にも住む家ぐらい何とかしてやりたい、と。百合子は、それが実現するとは思わず、またそれを維持してゆく経済条件がないから、家をつくることを希望していなかった。しかし、そのプランのどれにも、父は顕治が使うための室を割りあてていた。いつも、二人が住む家として考えていた。家は、実現しなかった。
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八月二十九日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(十国峠(1)[#「(1)」は縦中横]、熱海峠(2)[#「(2)」は縦中横]の絵はがき)〕
八月二十九日 土曜日。
きょうはスエ子、緑郎、紀《ただし》(従弟の一人)と江井という顔ぶれで、熱海をまわって十国峠を通り、つい最近出来た強羅公園のドライブウエーを宮の下へ出て夜十時すぎにかえりました。十国峠も強羅も私には初めてで、大変愉快でした。峠の上の濃い霧、すっかり道路が変っている国府津の家の前。〔以下絵はがき(2)[#「(2)」は縦中横]〕などいろいろ大変印象づよかった。かえりには大森の沢田屋でカニをたべ、賑やかなのにびっくり致しました。十国峠の入口はこのエハガキのようになっていて、八十銭とります。ゴーラの方は一円五十銭を橋銭のようにとる。そこでこのハガキを買い、スタンプを押させました。芝居がかって可笑しい写真! 右手の方へ行くのです。この夏はじめての遊楽でした。又こまかくは手紙で。
八月三十日午後 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
第九信。八月二十七日の夜から。
きょうは体によくない天候でしたが御気分はいかがだったでしょう。皮膚がひやっとしていて汗がじっとり出る。今も出ている。八十度一寸出ています。月夜だったが今は霧が漂っている。湿気が多いのですね。『二葉亭全集』をよんだら扉に「ロシア文学は意識的に人生を描いている。それが日本の文学と違う」と書いてあった、鉛筆で。昔あの本をあなたは古本でお買いになったのかしら。十九世紀のシムボリストのところ(別な本)を見たらカントの哲学との関係についてノートがあって面白い。いろいろ面白い。万年筆でひかれてある条の傍に更に点をうってゆくようなこともあります。そういうときは大変に又面白い。(もう眠ろうとしてメガネをはずしたのに、フトこの紙が目に入ったので一言お喋《しゃべ》りを)
二十九日の午後。
暑い日光が青葉青葉にさしてすこし錆びた緑金色の輝が庭に一杯になっている。アルプスの山の中の羊飼の男のヨーデルの合唱が聴え、日本の豆腐屋のラッパの声がそれに混っている。私は何を別に話すというのではなく、貴方に呼びかけている。それは、呼びかけるということが、実に沢山の、云いつくされない沢山の感情と感覚との圧縮的表現だから。感覚的な、感覚が話す話はなかなか字に出来にくいものですね。――芸術家というものがこの感覚的なものによって生き、人生をさぐり、そのものの内容をより豊富にしてゆく過程は面白い。
本当に打ちこんで勉強し、ものを書いてゆく快よさを、本当に感覚的に知っているものこそ、真の作家になり得る可能性をもっていると思います。ジイドは、ロマン・ロランとともに外国の作家としてはいつか勉強したいが「贋金つくりの日記」の中に感情と情熱との相異について書いている。その相異を知らぬものが、人生から感得するものは、いかに貧弱であるかということを云っている。私はこの三四年作家として猛
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