には退院しますでしょう。スエ子の盲腸は糖尿で切開が望ましくないから、何だかまだおなかが堅いと蒼い顔してフラフラです。太郎は益※[#二の字点、1−2−22]愛らしい。可愛い可愛い小僧です。
私の住むところ、国府津を思いついて下さいましたが、私はもうあすこには住めないと思う。父と最後に行って、父のかけた椅子を見ると苦しい。寝室も陰気さの方が勝っている。勉強机など父の趣味で買ってくれたのが置いてあり、やはりそれも苦しい。私は感覚的に肉体的に父を感じているのに、物[#「物」に傍点]があってしかも父はいないという感じばかりはっきり迫って来るところは、さすがのおユリも閉口よ。面白いでしょう。これはスエ子も全く同じ心持です。国、咲はちがうの。平気です。彼等はあすこで自分達の生活をやったからでしょう。それに家の前は八間のコンクリートの国道であり、後方には東海道本線が走り、クラウゼ的な丘陵で、落付けません。道ばたのあの土堤《どて》や松はもうない。つまり、あったとさえ想像出来ぬように無いのです。ですから私はやっぱり市内に家をさがしましょう。十二月中旬に。ああ私には〔約十五字抹消〕
では又。あしたあたりお手紙が来るかしら。
十一月四日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
十一月四日 ひどい南風。第十八信。
その後盲腸の工合はいかがでしょう。夜眠れないほどお痛みになったとは想像も出来ませんでした。ひやした丈でどうやら納まったのならまアよいが。
十月は大体盲腸やチブスの季節である由。しかし、若し手術がいる場合、そちらではどうなさるのでしょう? どうかお大切に。この間のお手紙をよんで、面会のとき、それでは苦しくていらしたろうし、又却って歩いたり立っていたりなすった丈本当の意味ではマイナスになったのだったと残念でした。国男はやっときのう退院してかえりました。まだつとめには出ません。晒木綿《さらしもめん》の腹帯を巻いて居ります。
この前の私の手紙もう御覧になりましたろうか。もう上林へは戻らぬことお分りでしょうか。『中央公論』の一月に小説をかきます。だから、山の中にいたのでは駄目故ずっとこちらに居り、仕事がすんだら又一寸空気を吸いにゆくかもしれません。今頃ポツポツ私たちが上林や善光寺から書いたエハガキなど届き、私が上林へ又かえろうなどと云っている手紙がお手に入っているのでしょうね。可笑しいこと。
きのう鶴さんのところでお手紙拝見しました。稲ちゃんが、「あの着物を私達が入れたと思ってお礼を云われて、わるくってしようがない!」とくりかえし笑いながら云っていた。縫うことと小包にすることを私が留守なのでたのんだのでした。「でも、好意ということでは同じだからいいさ」と私も笑ったの。本(蘭学事始)は、たしかに二人からの御誕生の祝です。鶴さんは大変体が参って居ります。そしてこの人は科学的には治療出来ないの、私は心配して居ます。彼は生きなければなりません。その重要さがはたしてどの位わかっているかしら、よくそう思う。
この間島田へ上林からお送りしたのは松葉の茶です。今度は少し沢山、野原の方と両方へお送りいたしました。いつぞやお話のあった毛布ね。あれはことしのお歳暮にさし上げましょう。私も少しは稿料も入るし。「阿Q正伝」の作者魯迅が没しました。写真の顔は芸術家らしくなかなか立派なところがあります。支那のゴーリキイといわれた由。この頃、パアル・バックというアメリカ人の女作家(支那生れ)のひとの「母」「大地」など支那を描いた作品をよみました。芸術の現実によって中国のしんの姿をつかむことの困難さが其々に感じられます。
作家としての発展の段階は生涯のうちに幾つ自覚されるものであるか、それは人によって、又その人の稟質《ひんしつ》の豊富さによるのであろうが、私などはこの頃になって小説というものにつき、そのこしらえものと、そうでないものとの差別がはっきりして来たようです。小説家としての発育は、小説を書くことでなされるという特殊な面が、人物の完成ということと微妙に相関している。人物が出来ている、だから直ぐいい小説がかけるとだけは云えず。芸術上の実践ということについては、まことに興味津々たるものがあります。英樹さんの評論の原稿を、私は興味と責任とをもってよみます。小説家と理論家とのちがい、そして理論家の素質というものについて、そのむずかしさについて感じます。何と、人生さながらの小説が欲しいでしょう! 科学者の随筆が小説よりも面白いと思われるという傾向が昨今あります。それは小林秀雄が、わけの分らぬ言葉の手品をしていたり、妙な下らぬ小説や賞がはやって、常識がそれにプロテストするからなのだが。
そのプロテストが又いろいろの事情によって三四年前とは全く異り、手がこんで
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