のとしつつあることを感じて居るのです。このように私の経験。悲劇の発生を不可能ならしめる程充実した愛の高められた本質の美しさ。そういう人生の最も耀《かがや》いた、強烈な経験を経て、私は自分が愛する者たち(父ばかりでなく)に対して持って来た愛し方が微塵《みじん》遺憾な点のないことに、深いよろこびと確信とを新しくしました。私が一番いい方法で丈夫になるための努力をすることを信じて御安心下さい。そして、一層磨かれ、深められ豊かにされた情熱で、自身を貴方にとって遺憾ないものであるように仕事し、我々の心は充ち満ちて、どうしてうたわずに居られよう。ねえ。貴方はそこで可能な最上の生活を営んでいらっしゃる。今は私もそのディテールを知って居るわけです。私はこっちで段々健康をとり戻し、好い小説を書きはじめる。

 五月二十五日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 本郷区駒込林町二一中條咲枝より[自注1](正宗得三郎筆「四国風景」の絵はがき)〕

 きょうは御病気の様子が少しはっきりわかったのでいくらか安心いたしました。
 面会の節、つい申すのを忘れましたが生玉子は白味をのぞいて黄味だけ召上れ。それから夏ミカンをよくあがるように。トマトはまだでしょうか。おかゆのお弁当を一ヵ月つづけておきました。朝牛乳、玉子二つ、一つはナマ一つは半ジュク、御注文のとおりいたしました。本のこともすぐ計らいます。どうかくれぐれもお大切に。お元気なのは分って居りますが家のもの、友人たちは本当に心配して居ります。全体として体力を蓄積なさることが大切ですから、読書なども平常よりは用心してなさいますように。
 皆からよろしく。きょうの太郎は眠くって失礼。でも思いがけなかったでしょう。

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[自注1]中條咲枝より――発信人は咲枝となっているが、百合子が書いている。前年五月中旬検挙された百合子は、十月下旬治安維持法によって起訴され、市ヶ谷刑務所未決に収容された。一九三六年一月三十日、父中條精一郎が死去した。百合子は五日間仮出獄した。ふたたび市ヶ谷にかえり予審中、二・二六事件が起った。三月下旬、保釈となった。百合子は慶応病院に入院した。保釈の際、判事は二・二六による戒厳令下の事情によって百合子の公判が終了するまで顕治への面会通信は控えるようにといった。
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 六月二十六日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 二十六日の夜。九時  第一信[自注2]
 今、二階の北の長四畳の勉強部屋でこれを書きはじめようとしていたら、太郎がアァアァアとかけ声をかけながら、一段ずつ階段を登って来て私の膝にのり、しばらく色鉛筆でモジャモジャとやってから、となりの広間の大きい写真の前へゆき、さかんに「おじいちゃまにこーんちヮ」をやっているところです。
 二十四日には、本当に本当に久しぶりでした。あまりいろいろ激しい生活の変化がこの一ヵ年間に生じたので、かえって何も申せませんでした。私は慶応病院に三月下旬から一ヵ月入院していた間に、あとになってお目にかけようと思って、毎日暇なときにポツポツ手紙のようなものを書いたのですが、時がたつとそれもやっぱり手紙としての役に立たないことがわかりました。
 とにかく、私の顔と声と眼の艶を御覧になり、あなたはきっと安心して下すっただろうと信じます。そしてわたし自身も深い安心を感じます。私は昔、あなたにユリはお嬢さんだから云々という言葉をいただいて以来、私のあらゆることであなたが心配して下さるということ――心配をあなたにかけなければならないものとしての自分を感じる必要のないものとして生きようとする習慣で暮していたし、あなたについても下らない心配は一切しない覚悟をきめていたので、私の体についても私が安心している間はあなたも安心していらっしゃるという風な感じかたでこの一ヵ年は暮したわけでした。でも私は変に気を揉《も》まないのはよいが、あなたに思ったよりずっとひどい不自由をもさせていたことがお会いしてわかり、心苦しく思います[自注3]。これからお互に一生懸命にその時分の不如意から生じた病気を癒《なお》しましょう。きっと癒ります。ある安定を見出せば、そこで全身の調和が生じ、あなたの一等の健康水準ではないまでも、低下したら、したなりに安定しましょう。
 気分はやっぱりあなたらしくゆったりしていらっしゃるからほんとうにうれしく存じます。大事にして下さい。ごたごたいうに及ばないことは実によく分っているのですけれども。文学の仕事についても、生活法についても御安心下さい。私が最近に経た鍛錬は、一人の私のような生き方をしてきた作家には、十分の価値をもって摂取されるものですし、ずいぶん無駄なく勉強もしたし、着々と作品の計画もたてはじめて居ります。私はやっぱ
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