態度ではない、なくてよいのであるということを。
詩人だったひとは、持病があったところへ肺病がだんだんわるくなって遂に生きられなかったのですが、動坂のおばさんだったひとやそのほかの友達たちが最後まで想像されないほどの親切をつくしました。死ぬ二、三日前に撮った写真では、タオル寝間着――黒の縞のところに赤っぽい縞が並んでついたの――を着て、『冬を越す蕾』を手にもっているところがとられていました。
国男連中は、まだラジオです。今頃がベルリンの午後三時四時です。オリムピックのドイツ語の放送が聞えてきています。一九四〇年に東京オリムピックが催される由、その賑やかさが今から思いやられます。武者小路、西條八十などスタディアムにいての通信をおくってよこしています。白鳥は夫婦で行っている。藤村は国際文化協会という役所から後援され、ペンクラブの大会へ(ヴェノスアイレス)出かけて居ります。昔、フランスへ茶の実をもって行ったように今度のおみやげも日本の植物の実と柿本人麿の和歌です。横光利一はパリにいて、一九二九年以来の花の散ったパリ[自注10]を見てつまらないと感じている由、面白いものね。見る人のこころごころの秋の月かなの感ありです。藤村と云えば、私は読書生活中に漱石をよみ直し、いろいろ興味ある発見をして居ります。小説を書いたら、次には漱石、鴎外、藤村の極めて作家的、人間的突こみをやってみたいと虎視タンタンよ。鴎外のロマンチシズム、その中挫、ゲーテ的なものの空想と現実との齟齬《そご》、大変面白いのです。いつになったら書けるか、今、ゴーリキイをやっていて、九月初旬本になり、築地の記念上演と同時に出るでしょう。それから腰を据えて小説を書いて(これは二年間位の仕事[自注11])、それからこの三老人にとりかかるのだから。私はこの間うちの経験で本をよむ術というか、本から必要なところをとって来る術とでもいうかを一層高めたので、三老人相手の仕事もいきいきと今日の生活の面に結びついて出来るつもりで楽しみです。そういうものは、この三、四年間の成長で自覚されて来たものです。こう欲ばりでは本当にアメリカ的事務処理法がますます必要ね。そして精神の永久の若さと休息のために、私は一方でますます子供らしくなってゆきそうです。では今晩はこれで、おやすみなさい。
五日、午後三時。
食堂の湿度計をみると、針はずっと中心によっている。やっぱり暑くてもさっぱりしている日は違うね、そんなことを話しながら、さて机をどっちにうつしたものかと考え、とうとうベッドを置いた八畳の方へ長四畳から出て来てしまいました。二階は概してあつい。特に四畳は西日がさすので。ここは庭を見下し、青桐の梢に向い、いくらか増しです。ピアノの音がしている。緑郎はゴーゴリの「検察官」を組曲に(パロディー風に)つくるプランをたて、しきりに思案中です。私はきのう、おとといでシャパロフ[自注12]をよみかえしたのですが、ゴーリキイより三つ年下のこのひとの経験はいろいろ比べて面白い。なかに、シベリアにはチェレムーシャという韮《にら》に似た草があって、それをたべると壊血病の癒るということがあります。何なのでしょうね。
一つの家でも食堂九〇度、この机のところは九四度。
昨夜は若い友人を渋谷の第一高等学校の近くへ訪ねてゆき、珍しいものを見ました。Y・Sの家ですが、昔の土蔵づくりの武者窓つきの全く大名門です。その門の翼がパァラーで主人Sの話し声がし、右手ではK女史のア、ア、ア、ア、という発声練習が響いているという工合。家全体は異様に大時代で、目を瞠《みは》らせる。そして道を距てた前に民芸館と称する、同スタイルの大建築がまるで戦国時代の城のように建ちかけている。木食《もくじき》上人、ブレーク、アルトの歌手。それとこの家! 実にびっくりして凄いような気がしました。Yの父は三井の大したところの由。私はブリティシュ・ミューゼアムで、ブレークの絵を見たときの印象を思い出し、ああいう特殊な世界にあってもとにかく清澄きわまる水色や焔のような紅色やで主観的な美に於ては完成していたブレークを、あんなに心酔しているY氏が、こういう重い、建築史からもリアクショナルな建築の家、わが家[#「わが家」に傍点]に住むとはびっくりした。芸術的感覚というものがいかに彼にあってはよりどころよわいかということにおどろいたのです。強さ、重さ、鈍重さの美を素朴な美しい木造の柱や何かにいかさず、ああいう土蔵づくりに間違えてしまったところ、実に微妙で複雑な歴史性の反映です。建築上の民族的特質というものについての勘ちがいがある。Y氏の愛する木食上人の木像は、ああいう家に住む土豪にあって彫《きざ》まれたものではなかったのですからね。
SUが新交響楽団のキカン誌『フィルハーモニー』
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