。心のしんでは、そして頭では、ひどくこれから書く小説のことについて集注的になりながら、何かそのための媒介物のようにこうやってこの手紙を書き、段々心持の落付きを深く感じつつあるの。
 私の机の上には又、レビタンというチェホフ時代の風景画家の描いた「雨後」という絵をハガキにしたのが一枚ある。非常にうるおいあり情趣あるリアリズムの画で、北の海フィンランド辺の海の入江の雨後の感じが活きて居ります。フィンランド辺の海は真夏でもキラキラする海面の碧《あお》い反射はなくて、どちらかというと灰色っぽく浅瀬が遠く、低く松などあって、寂しさがある。波もひたひたなの。濤の轟きなどという壮快なのはない。虹ヶ浜へは去年のお正月行って海上の島の美しい景色を眺めました。でも大変風がきつかった。そして、さむくあった。
 黒海は実に目醒めるばかり碧紺の海の色だのに、潮の匂いというものはちっともしないので、私は、あらこの海、香いのない花! と云ったことを覚えて居ります。日本の海はそういう点だけから見ればやはり相当ようございますね。
 湯ざめがして来てさむいのに、海のことを書いていて猶寒い。あなたはもう六時間ばかりするとお起きになるでしょう。よくお眠り下さい。たのしい夢ならば見るように。
 中絶してきょうはもう三月の十七日です。一つの手紙でこんなに永くかかるのは珍しいでしょうね。
 きょうも風がつよい。日曜日です。そしてあなたのお誕生日の十七日。九日から毎日ボーイがお使いに来て書けた丈の原稿をもってゆくという風で十三日の朝七時頃すっかり七十二枚かき上げました。小説としてよいかわるいかとにかく全力的に書いたことだけ自分にわかって居ると申す工合です。いずれにせよ、「小祝の一家」よりはよいのだから、私はあなたにあれしかよんでいただけないのが大変残念なわけです。
 ところで、十三日は母の命日故、一睡もしないうち林町へ法事に出かけ前後一週間、眠ったのかおきたのか分らぬ勢で仕事をしたためすっかり疲れ、未だに体がすこし参って居ります。
 手紙は大変御無沙汰になって日づけを見ると、殆ど一ヵ月近くかかなかったことになりました。御免下さい。御注文の本のことはきっとはかばかしくゆかないのでいろいろ御不自由と思いすみませんが、段々うまく致します。この間うち私は血眼だし、ほかのひとに書きつけを書いて貰ったら、もしや私が病気ではないかと心配なさりはしまいかと思ったりして本まで少しおくれました。間をおかず昨日と一昨々日送り出しましたが、どうかしら。
 ともかくこの手紙は何か遑《あわただ》しく半端ですが、これだけにして送り出します。『辞苑』辞書としていいであろうと思うがいかがでしょうか。すぐ又書きます。林町の皆からもよろしく。

 三月二十五日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 上落合より(封書)〕

 第十信 三月二十日 水曜日
 今この手紙の中には太郎の泣き声が混って居ります。林町の食堂の真中のテーブルで、太郎がねむがって泣き立てているところで書きはじめました。きょうはいろいろ賑やかな日でした。
 先ず昨夜久しぶりでいねちゃんがやって来た。春めいた日だったので、私は家じゅうをあけ放し、来ていた女の客としゃべっていたら門の中の板塀の下から見馴れた羽織が見え、いね公やって来たら、長火鉢の前にぺたぺたとなってニヤリニヤリ笑うだけでろくに声も出さないの。大腸カタルのひどいのをやって、もう殆ど三週間経ちますがまだやっとおもゆ[#「おもゆ」に傍点]の親方をたべているところ。春の風にふらふらやって来て、おまけに近所の原っぱへ私を散歩につれ出そうとしたのですって。それどころでなく、夜はお魚のスープをこしらえて御飯をスーさん、栄さんとりまぜ四人でたべ、丁度送って来た『文学評論』などよみ、いろいろ話し、十二時頃になった。
 行って送ってあげようと云っているうち、私はきょうの用事を思い出しついでに一つふろ敷包みをこしらえてそのまま林町へ来ました。配膳室のドアをわざとコトコト叩いたら、内の連中は時間が時間だし何が来たのかと一どきにこっちを見ている。そこへ私が現れたというわけ。
 けさは、二階に眠っていた父(私の来たのを知らないから)がおきたのをききつけて、洗面所でバシャバシャやっているうしろからいきなりびっくりさせ、それから電話を一つたのんで、又こんどは二階のおやじさんの空巣へもぐり込んで例によってお眠りブー子をやって、おきて来たら、すぐ私のいつも坐るところのテーブルに、あなたからのお手紙(父宛に、三月十四日にお書きになった分)がのっていた。封が切ってある。父が読んで私の目につくところにわざと置いて出かけたのでした。家じゅうのものがよみ、特に咲枝は太郎の生後百日目の食い初め[#「食い初め」に傍点]のお祝い日であったのでうれし
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