高等を出た並の給料を貰うことが出来るのだろうか。
炭や砂糖が切符になったが、配給の炭を買う金がなくて、切符をフイにしている世帯が東京に決して少くない。小学校に入れはしたけれど、卒業させるだけの六年間が待てなかった切ない親が何万人かあるのも明日にかわらぬ実際だろう。同じ年の三月に入学する児童の数と卒業してゆく子の数とを見くらべると、就学率こそ年々九九パーセントを示していても、卒業する少年少女は例年三十万から四十万減っている。卒業式の日に姿をみせなかったそれらの子供たちは、みんなどこかに働かされていて、日本の有識者年齢の最低十一歳までに四万六千余人、十三歳までの年で稼いでいるものが四十三万ほどある。この稚い働きての中で十一歳までのものでは、女の児が男児の倍の数を占め、十三歳までのものの中には女の子の方が十万人も多い割合であることも、私たちに沁々と現代の苦難少くない幼年時代を思いやらせずにいない。
六年制であってさえ、この実情であったのだけれども、それが国民学校となり八年制となったとき、状態はどのように好転するだろう。学校の入費の何割が国庫で負担されることになるのだろうか。この点に切実な生活からの要望があると思う。六年で尋常が終ったときでさえ中途でやめて小学校さえ出ていない少年少女は、物心づいて周囲を見まわしたとき、無限の悲しさと寂しさとひけめとを感じただろう。その小さい女の子たちが母親になったとき、どんなにか子供にだけは人並の学校を、と希望しただろう。その母親たちの痛切な希願の何割が、八年制の国民学校になったために達成されるであろうかと考えられる。学校へ行ける子と行けない子の人生への心持の開きが大きくなるようだと、そこにはやはり問題があると思えるのである。
国民学校での教育方針も様々に考慮されているようである。国史のようなものがこれ迄より重視されることも意味はあるだろうけれども、数学・理科をより軽く見る傾きが極端になれば、それは過ぎたるは及ばずにもなる。年限の永さが教育の実質の高さを直接に証明するものでないことを常識は知りぬいていると思う。知育偏重排撃という流行的傾向があって、昨今その流行に乗じて語る人々は科学の精神がおのずから本来そなえている倫理性を理解していない場合が多すぎる印象である。もし数理の観念と打算性と結びつけてしか考えられないとしたら、それはそれ等の
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