った様子でもなかったですか」
「その晩もごく平常のとおりでして、監視[#「監視」に傍点]は怠らずにいたんですが、あれ[#「あれ」に傍点]がフロからかえって二階へ上りましたもんで、私共もつい気を許して奥へ引込んだのですが……どうも――ほんの二分か三分の間に出てしまったものと見えます」
――自分には、そうやって五月蠅《うるさ》く親につきまとわれる娘さんの気分が手にとるように映った。あのぽっちゃりした受口に癇を立てて、ぷりぷりしながら沈んでいる姿まで思いやられるのであった。
傍で話をきいていて、すぐ死んでしまうとも思えない。さりとて、ストライキの時の確りした友達のところへ駈け込んで、もう二度と家へかえらず新しい生活へ入る決心したのだとも、思えない。いかにも、そういう性の娘さんであった。
父親は、会社へもねじ込んで行ったのだそうだ。
「同じ切るなら、若いもののことだ、せめて生きられるように切って貰いたかったと云いました。会社の方でも、それはすまなかったとは云っておりましたが……どうも――」
小商人風の小柄な父親はセルの前をパッとひろげ襦袢を見せて椅子の端にかけ、肩を張って云っている。卑屈なりに今日は精一杯の抗議感を、その切口上のうちに表現しようと力をこめているのが私にまで感じられるのであった。
主任はいろいろきいている。しかし実は何もする気でない事は、その顔つきで分っている。傍できいていて自分は、この父親の態度が歯痒く、腹立たしいようになった。どうして、ズッパリと、何故娘を殺した! と正面からぶつかって行かないのだろう! 何故|体《たい》あたりに抗議しないのであろう!
遂に不得要領のまま、
「では――そういう状態ですから一応御報告[#「一応御報告」に傍点]いたして置きます」
一応御報告[#「一応御報告」に傍点]というところへ云いつくせぬ小心な恨みをこめ、対手にはだが一向|痛痒《つうよう》を与え得ず、父親が去ると、主任は椅子をずらして、
「どうです」
と自分に向った。
「ああいうのをきいて、何と感じます」
「あなた方が益々憎らしい」
「ふむ。――私は飽くまであなた方を憎むね。あんなおっとりした若い娘を煽動してストライキに引こんだのは誰の仕業かね?」
「ストライキをしていた時、あの父親は[#「あの父親は」に傍点]やめさせて呉れと警察へたのみはしなかった。会社が[#「会社が」に傍点]たのんだ。警察は会社のために犬馬の労をとったのだ。――そうでしょう? あの親父さんの本心では、どうして呉れる! と叫んで来たのだ」
それぎり黙りこみ、新聞を読み出した。が、自分の心は深い一点に凝って、暫く動かなかった。
おとといのことだ。朝からいかにも陰気な小雨で、留置場の裡はしめっぽく、よごれたゴザが足の裏へベタベタ吸いつくようだった。雨の日、留置場は濡れた鶏小舎そっくりの感じである。シーンとなっていると、三時頃、呼び出された。矢張りべとつくアンペラ草履で二階へ行くと、高等室とは反対の、畳敷の室へ入れられ、見ると、母親が窓近くの壁にもたれて居心地わるげに坐っている。オリーヴ色の雨合羽が袖だたみにして前においてある。自分を引出して来たスパイは、
「……じゃあ」
と云って、珍らしくさし向いにして室の外へ出た。室の外と云っても、ドアをあけ放したすぐ外のところに立っているのである。自分は坐りながら、
「どうしたの、お天気がわるいのに……」
と云った。母親は、一寸だまっていたが、
「――こんなお天気にとても私は家にじっとしてはいられないよ」
――何年も母親から感じたことのない、そして、そんな優しさのあることは忘れていた暖みがその時湯気のように自分をつつんだ。
「ありがとう、すまなかったわね」
「親なんてばか[#「ばか」に傍点]なものさ」
「いいわよ、いいわよ。今のような時勢にはいろいろのことがあるさ」
自分は母親の手をとり、指環がまがっているのを見て、それを直してやった。二階の窓からは雨にぬれた銀杏樹の並木、いろんな傘をさした人の往来、前の電気屋のショーウィンドに円いオレンジ色のシェードが飾ってあるの等、活々と一種の物珍らしい美しさで暗い、臭いところから出て来た目に映った。
やがて、母親が室の外をのぞくようにして、
「さっきの人、どこにいるかい」
と小声で訊いた。
「そこにいるわ」
単衣《ひとえ》羽織を着た帯の前のところで母親はそっと手の先だけを動かし、おいでおいでをした。自分は、膝頭で、そばへよって行きながら、はじめ体が熱くなり、段々顔まで赤くなるのを感じた。到頭母は、誰かの、待ちに待った外からのことづけを持って、わざわざこんな日に面会に来てくれたのか。――自分はぴったり母によりそい、羽織の衿を直すようにしながら囁いた。
「何なの?」
「お前
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