を手拭でさせられた章子をしょびいて、どやどや部屋を出た。
「え――、里栄はんのお姉御、ゲン里はんでござい、よろしゅおたの申しますう」
「――何事どす?」
 茶の間の襖《ふすま》を開けて顔を出すなりこの始末に女将は、
「へえ」
 忽ち、反歯を飛ばしそうに笑い出してしまった。
「いじらしい目に会わはるもんどっせなあ、へ? ようかわいがったげるさかいな、精だしてお稼ぎや」
 桃龍が、笑いもせずもう一遍、
「え――、里栄はんの姉妹御ゲン里はんでござい……」
 章子は、獅々舞いが子供を嚇すように胸を拳でたたきたたき笑いこけている小婢《こおんな》の方へじりじりよって行った。
「怖《こ》わァ」
「阿呆かいな」
 階段の中程へ腰をおろし、下の板敷の騒動をひろ子も始めは興にのり、笑い笑い瞰下《みおろ》していた。が、暫くそうやっているうち、ひろ子は、ひとを笑わせ自分も笑っている章子が可哀そうみたいな妙な心持になって来た。紅い帯を胸から巻き、派手な藤色に厚く白で菊を刺繍した半襟をこってり出したところ、章子の浅黒い上気《のぼ》せた顔立ちとぶつかって、醜怪な見ものであった。章子自身それを心得てうわてに笑殺しているのであろうが、ひろ子は皆が寄ってたかって飽きもせずそれをアハアハ笑い倒しているのを見るといい気持がしなかった。ひろ子は先へ自分だけ二階に引かえした。そこここに着物の散らばっている座敷の床柱に靠《もた》れ、皆の戻って来るのを待ちつつひろ子はこの気持を章子に話すときを想像し、渋甘い微笑を一人洩した。章子は一応、
「そんなの偏狭さ」
と云うに定《きま》っているから。

 翌々日は日曜日であった。蒔絵を観るため、彼等は高台寺へ行った。蒔絵のある建物が裏山の中腹にあって、下から登龍の階と云うのを渡って行くようになっていた。遠洲の案とかで、登ってゆくときには龍の白い腹だけ、降りには龍の背を黒く踏んで来るように、階段の角度が工夫してあるのであった。
 満足もしない心持で寺を出たが、ぶらぶら歩きながら頭の中へ浮ばせて見ると、登龍の階でも、それを工夫した人間の感興が却って実物を見ているときより理解されるような気がした。やや湿っぽい山気、松林、そこへ龍を描こうとする着想は、常時生気あるものであったに違いない。然し平等院の眺めでさえ、今日では周囲に修正を加えて一旦頭へ入れてからでないと、心に躍り込んで来る美が尠い。
「――京都の文化そのものがそうじゃない? 大ざっぱに云って」
「或る点そう思う、私も」
 全然反対の例にとれる龍安寺の石庭のことなど喋りながら、彼等は真葛ケ原をぬけた。芝生の上はかなりの人出で、毛氈《もうせん》の上に重箱を開いて酒を飲んでいる連中が幾組もあった。大人の遊山の様がいかにも京都らしい印象を彼等に与えた。
 円山の方へ向って行く。往来が疎らになった彼方から、女が二人来た。ぼんやり互の顔が見分けられる近さになると、大きな声で一方が呼びかけた。
「ゲンコツァン!」
 桃龍とも一人、彼等の余りよく知らない女であった。
「――おふれまいか?」
 例の癖の睨むような横目で、桃龍は章子の問いに合点した。
「どこへおいきやすの」
「どこって――その辺ぶらぶらしようと思って」
「ふーん。……ほんならあてもいく。なあ、ヘェ」
 つれに振向いて耳打ちし先へやって、彼等は章子達と近所の金魚屋へ入った。入口は植木屋のようで、短いだらだら坂を数歩下ると開いた地面がある。支那鉢や普通の木の箱があって、いろんな種類の金魚が泳いでいた。或る箱の葭簀《よしず》の下では支那らんちゅう[#「らんちゅう」に傍点]の目の醒めるようなのが魁偉《かいい》な尾鰭を重々しく動かしていた。葭簀を洩れた日光が余り深くない水にさす。異様に白く、或は金焔色に鱗片が燦《きら》めき、厚手に装飾的な感じがひろ子に支那の瑪瑙《めのう》や玉《ぎょく》の造花を連想させた。
「なあ、ヘェ、あてらうちにこんなん五匹いるわ」
 それは普通の出目金で、真黒なのが、自分の黒さに間誤付いたように間を元気に動き廻っている。揺れる水面にさす青葉のかげ、桃龍の袂の色が、早い夏のようだ。
 彼等は円山の奥まで歩き、亭《ちん》に休んだ。亭のある高みの下を智恩院へゆく道が続いていた。その道を越して、もっと広い眺めが展《ひら》けている。下の道を時々人が通り、亭の附近は静かであった。花の咲かない躑躅《つつじ》の植込みの前にベンチがあり、彼等が行ったとき、そう若くない夫婦がかけていい心地そうに目前の眺望に向っていた。桃龍は、着物の裾を両方の脚に巻きつけるような工合にして暫く亭にかけていたが、やがて、
「えろ仲よそうにしてはる、ちょっとなぶって来てやろ」
 つかつかその人達の方へ行った。火を貰って此方向きにかえって来ながら彼女は嬉しそうに笑って舌を出した。彼等もつり込まれて思わず笑い、莨《たばこ》の火をかりた人の方を見ると、その人々も笑っている。日曜日らしい寛《くつ》ろいだ情景でひろ子は愉快を感じた。ベンチの男の人の黒い鍔《つば》広帽が公園の自由画のようであった。



底本:「宮本百合子全集 第三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第三巻」河出書房
   1952(昭和27)年2月発行
初出:「新潮」
   1927(昭和2)年7月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2002年9月25日作成
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