はん」は彼等が並んで歩いている後姿を描いたのだが、滑稽な中によく特徴を捕えてあった。
「上手《うま》いな」
「……ええもん見せたげまひょか」
手提袋から、彼女は手帖を一つ出した。二寸に三寸位の緑色の手帖であった。或る頁には日記のようなものが書いてあり、或る頁にはいろいろの絵が細かく万年筆で描いてある。時事漫画に久夫でも描きそうな野球試合鳥瞰図があると思うと、西洋の女がい、男がい、それぞれに文句が附いているのであった。「晴れて嬉しい新世帯」都々逸《どどいつ》のような見だしの下に、新夫婦が睦じそうにさし向いになっている。やがて口論の場面が来、最後には奇想天外的に一匹の猿が登場する。瘠せた猿がちょこなんと止り木にのっている。前に立って飽かれた妻が重そうな丸髷を傾け、
「猿公《えてこう》、旦《だん》はんどこへ行かはったか知らんか」
と訊いている。――
絵物語の女が桃龍自身の通り大きな鼻をもっているところ、境遇的な感じ方で描くところ、若い女らしいものが流露していてそれが桃龍だけに、ひろ子は可憐な気がした。
「さ、あて着物《べべ》かえさしてもらお」
隈を自分の顔に描いて遊んでいた里栄が立ち上った。
「あても――」
二人は隅で帯を解き始めたが、いきなり里栄が、端折をおろした裾を引ずって、章子のそばへよって来た。
「なあヘェ、ゲンコツぁん、ええことして遊びまほ。――立ちいおしやす」
「何するのや」
「おとなしゅうして、あてらにまかしといやしたらええにゃわ」
桃龍が云いながら章子をつらまえ、着ている褞袍《どてら》をむきかけた。
「これ! 怪体《けったい》なことせんとき」
章子はあわてて胸元を押えた。
「ふあ! 様子してはる――」
大騒ぎで褞袍を脱がせ、それを自分が羽織ったなりで里栄は今まで着ていた長襦袢を先ず着せ、青竹色の着物を着せ、紅塩瀬に金泥で竹を描いた帯まで胸高に締めさせられた章子の様子には、ひろ子も腹をいたくした。
「なんえ、これ! かわいそうな目に会わさんといとくれ、頼むぜ」
「黒人《くろんぼ》の花嫁! 黒人《くろんぼ》の花嫁!」
ひろ子が笑い涙を溜めながら囃した。
「こんな嫁はんあらへん――親出《おやで》や、親出《おやで》や」
「階下《した》へいて見せたろ」
「――一寸待って、何ぞ頭へ被らなあかへんわ、ええもんがある、ええもんがある」
その上に姉様かぶりを手拭でさせられた章子をしょびいて、どやどや部屋を出た。
「え――、里栄はんのお姉御、ゲン里はんでござい、よろしゅおたの申しますう」
「――何事どす?」
茶の間の襖《ふすま》を開けて顔を出すなりこの始末に女将は、
「へえ」
忽ち、反歯を飛ばしそうに笑い出してしまった。
「いじらしい目に会わはるもんどっせなあ、へ? ようかわいがったげるさかいな、精だしてお稼ぎや」
桃龍が、笑いもせずもう一遍、
「え――、里栄はんの姉妹御ゲン里はんでござい……」
章子は、獅々舞いが子供を嚇すように胸を拳でたたきたたき笑いこけている小婢《こおんな》の方へじりじりよって行った。
「怖《こ》わァ」
「阿呆かいな」
階段の中程へ腰をおろし、下の板敷の騒動をひろ子も始めは興にのり、笑い笑い瞰下《みおろ》していた。が、暫くそうやっているうち、ひろ子は、ひとを笑わせ自分も笑っている章子が可哀そうみたいな妙な心持になって来た。紅い帯を胸から巻き、派手な藤色に厚く白で菊を刺繍した半襟をこってり出したところ、章子の浅黒い上気《のぼ》せた顔立ちとぶつかって、醜怪な見ものであった。章子自身それを心得てうわてに笑殺しているのであろうが、ひろ子は皆が寄ってたかって飽きもせずそれをアハアハ笑い倒しているのを見るといい気持がしなかった。ひろ子は先へ自分だけ二階に引かえした。そこここに着物の散らばっている座敷の床柱に靠《もた》れ、皆の戻って来るのを待ちつつひろ子はこの気持を章子に話すときを想像し、渋甘い微笑を一人洩した。章子は一応、
「そんなの偏狭さ」
と云うに定《きま》っているから。
翌々日は日曜日であった。蒔絵を観るため、彼等は高台寺へ行った。蒔絵のある建物が裏山の中腹にあって、下から登龍の階と云うのを渡って行くようになっていた。遠洲の案とかで、登ってゆくときには龍の白い腹だけ、降りには龍の背を黒く踏んで来るように、階段の角度が工夫してあるのであった。
満足もしない心持で寺を出たが、ぶらぶら歩きながら頭の中へ浮ばせて見ると、登龍の階でも、それを工夫した人間の感興が却って実物を見ているときより理解されるような気がした。やや湿っぽい山気、松林、そこへ龍を描こうとする着想は、常時生気あるものであったに違いない。然し平等院の眺めでさえ、今日では周囲に修正を加えて一旦頭へ入れてからでないと、心に躍り込んで来る
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