せ、その中で、十九年前仲居をしていたとき一人の男を世話され、間もなくその男の児と二人放られて今日まで血の涙の辛苦で一人立ちして来たと、賢女伝を創作した。
「女《おなご》ほど詰らんもんおへんな、ちょっとええ目させて貰《もろ》たと思《おも》たら十九年の辛棒や。阿呆《あほ》らし! なんぼ銭《ぜぜ》くれはってももう御免どす」
然し、それは嘘なのであった。そんな作り話をきかされる柄に見えるかと、彼等は宿へかえる路も笑ったのであった。
女将が階下へ下りかける、階子《はしご》口ですれ違いに、
「ゲンコツぁん、お居やすか」
「まだ寝んねおしいしまへんのん」
桃龍と里栄が入って来た。里栄は、都踊りへ出たままの顔と髪で、
「おおしんど!」
直ぐそこにある茶を注いで飲んだ。
「何でそんなに息切らしてんのや」
「走って来たんやわ」
「なあ、ヘェ、桃龍《ももりょ》はんちゅうたら、あての手無理こ無体に引っぱってどんどんどんどん走らはるのやもん……」
桃龍は、文楽人形のようなグロテスクなところがどこにかある顔で対手を睨むような横目した。
「――怪体《けったい》な舞まわされて、走らずにいられへんわ」
都踊りの最後の稽古の日、その日はまあ大事の日だから、自信のある年嵩《としかさ》の連中でもちゃんと時間前に集っていたところへ、桃龍がたった一人遅れ、しかも寝ぼけ面で入って行った。平気さが、瀧沢という年寄の師匠の癪に触ったと見え、
「そらもう桃龍はんは、何でもようでけるさかい、遅れて来ても大事おへんやろ」
と厭味を云った。それが出来ない方で寧ろ有名な桃龍は笑い出して、満座の中でぬうと師匠の顔の先へ指さしつつ、
「うーそぅ」
と云った。
「ほんまにあのときのお師匠《っしょ》はんの顔! 笑えて笑えてかななんだわ。――『うーそぅ』ちゅうなこと、よう云わはったわ」
桃龍は知らん顔で卓の上の硯箱《すずりばこ》をあけ、いたずら描きを始めた。
「――近くで見たら、その顔、まあ化物やな」
「いやらしおっしゃろほんまに、踊のある間、あてら顔滅茶苦茶やわ……痛い痛いわ、荒れて」
「……何《なん》や、それ」
「ワセリン」
「――ようとれるな」
章子と二人の話声をききながら、ひろ子は興味をもって、桃龍のいたずら描きを眺めていた。「桃龍はんの泣き面」「ゲンコツぁんと蕪《かぶら》はん」――「ゲンコツぁんと蕪《かぶら》
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