れて来ました。
今日のように、日本が民主主義の国になろうとして、新しい出発をしたばかりのときには、「公」という字の感じかたにも、混雑があります。「輿論」というと相当の重みをもって通るのに、「公衆の意見」というと、何だか、その程度をうたがわれるような傾きがあります。別の「公」、官僚的な重苦しい「公」で、何となく抑えつける余地でもあるように、扱われています。
思えば、戦争中、私たち全日本人は「滅私奉公」という一字で、万端をしめくくられて来ました。けれども、今日になって、その時をかえりみれば、「私」を滅して、命までを捧げるべき「公」と云われたものの本体は、たった一握りの特権者たちの、「私」の利益であったことが明瞭にされました。
自分のこころもち、自分の考えを、どこまでも私ごとという、カラの中に封じておくならば、決して社会は進歩いたしません。
私たちのめいめいの心もち、考えの中に、ひろくひろく「公」の要素が加って、「私」の見解はとりもなおさず、一つのれっきとした「公」の見解であるというようになって、はじめて日本の民主生活は、現実のものとなってゆくでしょう。[#地付き]〔一九四六年
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