りしているのでしょう。
真に公の声である全日本の人々の、生きて働けるだけ食べられるように、という声に心を合わせて、人民が自分たちで責任をもって食糧の管理をやって見ようという、公の方法に、賛成しないのでしょうか。
ここでも、公のことと、私のこととが全くさかさまになっております。
日本の歴史は、ついきのうまで、深い封建性の雲にとざされておりました。そのために、「公」という字の使いかたが、永年のうちに誤られてしまいました。「公」という字は、官僚的な、役所、「お上」のことめいたものばかりを意味するようになってしまいました。
私という字は、何でも民間のもの、よくてもわるくても公よりは一段力のよわい、社会の立場の低いものと、うけとられるようになりました。
民主的な国で「公衆」というとき、それは個々の「私」が幾千幾万と、より集った、最も実力のある、決定権をもったものとして、見られています。ところが日本ではどうでしょうか。
「公衆食堂」へ農林大臣が食事に行ったという例があったでしょうか。同じ「公」という字でも、それに「衆」という字がついて公衆となると、それは却って一段と低くなった感じで扱わ
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