ことを厭がる阿母《おっか》さんがある筈はないから」
 話は、都合よく捗取《はかど》った。そして、いよいよ結納を交すという間際、先方からおもんも真吉も期待しなかったことを云ってよこした。それは、丁度、津田が十日ほど出京する用事を命ぜられたから、ついでに一晩、真吉の家へ厄介になり、緩《ゆっ》くり話もしたいし、式や何かの打合せもしようと、云うのである。
 これを聞いた時、おもんは我知らず指の先までひやひやになった。
 どんな狂犬でも、歯の届かない処にある者に害を加えることはしなかろう。
 津田と継母とが会った揚句、どんな吉事を望めよう。もう、自分のものと定ったと想った運命は、矢張り未定な、蜃気楼《しんきろう》であったのか。おもんは、冷やかな氷で心臓の辺りを撫でられるような絶望と、戦慄とを覚えた。然し、いつか二人が会わなければならないのは、事実である。万一、それが運命を変えるとすれば――。
 今日、津田が来るそうだからといって、父親がわざわざ使をよこしても、おもんは一歩も家から出ようとはしなかった。
「私がおりましては却ってわるいのです」
 おもんは、蒼ざめた顔をし、絶えず恐れ、緊張してその日を過ごした。気の弱い彼女には、自分の一生の運命が定められると思う場所へ、到底顔を出す勇気がなかった。どう考えても、凶《わる》い方ばかり想像される上は猶更である。いざとなった時、おまきがどんな恐ろしい女であるかおもんは誰よりもよく知っている。
 不幸の迫る足音は、誰より早く、不幸に馴れた者の耳に入る。
 おもんの悲しい予感は当った。津田との縁談は、彼が帰国してからよこした一本の手紙で、調停の見込みなく破れてしまった。同時に、彼女は、普通には希望と幸福そのものであるべき結婚ということが、自分にとっては、どんなに呪われた、恐ろしいものであるかを、性根の髄から思い知らされた。
 おまきは、狂気のようになって津田を罵倒した許りか、娘の上に、神も怒らすほどの証を立てた。
「それあ、勝手な真似をなさるのもようござんすが、あれの片輪を、どうぞ後からかれこれ云わないで下さい。――娘の体のことを、母親ほど知っている者はありもしないのに……」
 人々は、その言葉を、信じてよいのか、疑ってよいのか知らなかった。ほんとに「母」ならば、娘の爪の褶《ひだ》さえ知っている筈なのだから。

 一旦、艶かになったおもんの
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