井に見張りながら、時々低い唸り声を出している。産婆と入れ違いに台所へ逃げて来ても、おもんは、ウワウワと膝頭の震えるのを止めることが出来なかった。どんな可怖《こわ》いことが起ろうというのだろう。阿母《おっか》さんは、どんな叫び声を出すだろう。
 奥から、獣とも人間ともつかない唸り声のする毎に、おもんはさっと蒼ざめ、瞳孔を大きくした。それでも、彼女は一大事を感じて、母親の命じたことだけはした。竈に火を起し、水をなみなみと湛えた釜をかけた。チラチラ焔を立てて燃え上った薪の上に、釜の外をまわった水の雫が滴って、白い煙をあげながらジュッ! という。彼女は、燃え口からはみ出すほど、後から後から新な薪を差し添えた。火の勢いが熾《さかん》になればなるだけ、身に迫るこわさが減るように感じたのであった。
 が、母の小部屋の裡で、運命はまるで逆転していた。四辺が夕闇に包まれて来るにつれ、威力を増したのは誕生の歓喜ではなく、死の冷たい、仮借ない指先であった。
 おもんが二度目に往来へ駈け出し、四五丁先の銀行から、番人をしている父親を呼んで来た時、彼女の二人とない母親はもう生きていなかった。母親は、突然|子癇《しかん》を起した。そして、おもんの桃色の襟巻を始め、一生の悦びも幸福も、あらゆる約束を遂げないまま、急に生活から引離されてしまったのであった。
 線香の匂う物淋しい家に、おもんは全く独りぼっちになった。父親はいても、互に生き写しな気弱さや生活上の無気力で、どちらも頼りにはならなかった。その上、おもんの稚い心には、人生の恐ろしさが烙印のように銘された。小さい、臆病な黒い二つの眼は、朧《おぼろ》げながら、平凡な日常生活を包む見えない幕が一旦掲げられると、底からどんな恐ろしい転変が顕《あらわ》れるか、忘れられない深い印象を以て見たのである。
 死んだおもんの母親は、彼女に二人の同胞を与える筈であった。けれども、彼等は皆|夭折《ようせつ》した。このことは、おもんにとっての大きな不幸であったが、父の真吉には、先ず好都合というべきものになった。
 半年ばかり経つと、彼は同僚の世話で二度目の妻を迎えた。激しい嫉妬深い気象を持ったおまきは、瞬くうちに家庭の主権者として、良人に命令を与える地位に立った。当然おもんは、最も従順な奴隷とならずには置かれない。新しい母にとって些かも邪魔にならず、しかも必要な場
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