を中心に勉強する。
 春は野に来た、山に来た。蝶々が舞います、というだけの、ブルジョア小学校の「春」と大分内容が違う。
 春は気候がどう違って来るか。草木はどんな変化を見せるか[#「春は気候がどう違って来るか。草木はどんな変化を見せるか」はゴシック体](そこで自然科学と観察を習う)
 春、都会の人々はどんなに働くか。農村で人々は春どう働くか[#「春、都会の人々はどんなに働くか。農村で人々は春どう働くか」はゴシック体]?(生産と社会労働、特に今なら五ヵ年計画による工場の生産拡大、農村の集団化が説明される)
 子供は、働く大人をどう助けるか[#「子供は、働く大人をどう助けるか」はゴシック体]?(ここで実際の仕事をいろいろやる。都会の小学校は、公園へ保護鳥の巣箱を吊りに行く。その小学校の学生が支持している、一定の集団農場の手助けにも出かける。そういう旅行で、地理も習う。測量も習う。上級なら、この季節、外国の、東洋の植民地農業労働者の搾取状態までに及んで、経済政治を覚えるのだ)
 各学課が重箱式に、機械的に分けられ、つみ重ねられていない。一つの題目は次の一つの題目へとかたく生活的な結びつきでのびて行くから、実際生活にすぐ役立つ勉強法だ。子供の頭は、すぐ手元の日常生活を基礎にそれを解剖し、批判し、新しく、綜合して建設してゆくすばらしい力を与えられる。それこそ、プロレタリア的な知慧=無駄のない理論的であるとともに実践的な同時にびっくりするほど国際的な活々した知識をもつようになる。
 折角もって生れた才能を押しつぶしたり、歪めたりするような不経済を社会主義社会の教育は決してしない。アメリカのダルトン・プランと云うブルジョア社会の個人主義的な自由競争における天才[#「天才」に傍点]製造はやらない。一人の英雄だけをこね上げるに熱中する教育法ではない。然し、すべて人民の子供が個人の独特な才能を、社会全体の建設の中へ役立てて行くような育てかたは実に成功的にされている。
 例えば或る工場見学に小学校生徒の一級が出かけたとする。その記録をこしらえようとする。一級が一冊の「××工場見学の印象」というものを制作するのに、教師は決して誰それサン、作文を書きなさいとは命じない。めいめいが相談しあって、自分の一番得手な、やりたい技術でその仕事に参加する。或る子は一生懸命スターリンの論文をひっぱって論文
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