ヴィキだ。その男が、亡妻の妹の裸の胸を見て、煩悶しはじめる。それはあり得ることとして、その男がそれほどクドクドとこまかく、根ほり葉ほりその性的刺戟をめぐって心理穿鑿をやる。果してそれはボルシェヴィキらしい生活態度と云えようか。
 息子のピオニェールが父親に対して批判をもっている。だが、その描写の自然主義的なテンポは、現代の活きて、働いて、歩きつつ思索する彼等の生活力を表現しているであろうか?
「英雄の誕生」が、大衆によっていろいろに吟味されつつある間に、再びソヴェトでは春の種蒔時が迫って来た。一九三〇年だ。
『プラウダ』は「種」の準備、農業機械中央部《トラクターツェントル》への注意、五ヵ年計画第二年目の蒔つけ地積拡大予定計画などを次々に発表した。
『文学新聞』(ソヴェト作家団体連盟の機関紙)は、作家の農村への見学団募集をしはじめた。芸術ウダールニクを組織する必要をその社説に発表した。
 ソヴェト市民は、映画のスクリーンの上に見た、まだ雪が真白にのこっている早春の曠野で、疎らな人かげが働いているのを。測量器をかついで深い雪をこぎ、新しい集団農場の下ごしらえのために働いているコムソモールを照らす太陽と、彼等の白い元気のいい息とを。
 ――「生産の場所へ!」――
 何台も連結された無蓋貨車に出来たてのトラクターがのせられた。数百露里のレールの上を、新しい集団農場に向って走ってゆく。
 そのレールを走るのは、重い貨車ばかりではなかった。三等列車も通る。
 一九三〇年の春の種蒔どきには、風変りな見かけの三等列車がソヴェト・ロシアのレールの上を運行した。三等列車の鋼鉄ではられた外側いっぱいに「五ヵ年計画を四年で!」というスローガンや、工場と農村の労働、その結合を主題にした絵、または一目見ても思わずふき出すような反宗教の漫画を描いた列車が、屋根に赤い旗をひるがえし、窓からつき出した元気な若者たちの髪の毛を早春の勁《つよ》い風に吹きとばしながら、走った。
 それは「五ヵ年計画」の文化宣伝列車である。
 国内戦当時、コムソモールと政治部員はやっぱり絵で飾った三等列車や貨車にのって、あらゆる地方をまわった。
 一九三〇年、文化宣伝列車にのりこんで遠く農村へまで行ったのはコムソモールのウダールニクのほかに映画の撮影・映写隊、劇場からのウダールニク、ロシア・プロレタリア作家連盟からの若い作家達、音楽家と舞踊家、画家などであった。
 芸術ウダールニクは、広い同盟の四方へ出かけ、そこへ文化の光をふりまくと同時に、そこにはじまっている農村または新工場都市の全然これまでとはちがう新しい社会生活、生産労働の形態から発生する心理を、めいめいの芸術の新素材として吸収しようとしたのであった。
 五ヵ年計画が、巨大な困難と闘いながら進捗するにつれて、ソヴェトの芸術全線が、実際上の必要から、はっきり生産の場所へ結びつけられて来た。
 例えば、ゴーリキーの生れたニージュニ・ノヴゴロド市について見よう。一九二七年、このヴォルガ河に面した古い都会はどんな意味をソヴェトのプロレタリアートに対してもっていただろうか?
 ニージュニ・ノヴゴロド市には、夏になると、昔から有名な定期市《ヤールマルカ》が立った。ペルシャの商人までそこに出て来て、何百万ルーブリという取引がある。ニージュニ・ノヴゴロド市の埠頭、嘗てゴーリキーが人足をしたことのある埠頭から、ヴォルガ航行の汽船が出る。母なるヴォルガ河、船唄で世界に知られているこの大河の航行は、実に心地のいい休養だ。ニージュニときくと、恐らく或る者は(来年あたり、有給一ヵ月休暇に一つヴォルガ下りをやりたいナ)そう思いもするだろう。
 いずれにせよ、ニージュニは、全ソヴェト勤労者の日常生活にとってそう密接な関係はなかった。
 ところが五ヵ年計画とともに、この古い都は新しい命をふきこまれ、ソヴェトの意識ある勤労者にとってニージュニ・ノヴゴロドという市は忘られない場所になった。
 ソヴェトは生産力増大のために全同盟の電化と自動車化に異常な努力をはらっている。ニージュニ・ノヴゴロド市には、ほかならぬソヴェト・フォードの自動車製造工場が出来たのである。
 それは、木造の門をもった大工場だ。その門から処女製作のソヴェト・フォード第一号が、歓呼の声に送られて動き出した時の光景は、ソヴキノの映画ニュースをとおして、モスクワの労働者の胸にまでつよく刻みこまれている。
 ニージュニに新しくソヴェト・フォード製作工場が出来たという事実は、ソヴェトのような社会主義社会においては、単に首府モスクワの往来を、より沢山のトラックが地響たてて疾走するようになったというだけには止らない。一つの新しい工場は、きっと新しい労働者クラブの設立を意味している。工場クラブはきっと、そこに組織される研究会《クルジョーク》と、その指導者として動員されなければならぬ政治教程《ポリトグラーモタ》の説明者(若い党員)、音楽、文学、ラジオ、科学、美術の各専門技術家を予想している。
 工場クラブ、労働者クラブは、大なり小なり講堂をもっている。講堂の壁には、絵が欲しいではないか。工場委員会の文化部は会議を開く。
「どうだね、一つここんところの壁へ何かかけた方がいいと思わないか?」
「異議なし」
「町ソヴェトの倉庫んなかに、元絹問屋の客間にあったっていう、でっかい絵があるぜ」
「ふーむ。どんな絵だい?」
「なんでも黒い髪をたらした女が踊ってるんだ、半分裸でよ。その女の前にある皿に、男の首がのっかってるんだ」
「俺等そんな絵にゃ用がないよ。ちょんぎられた首なんぞ! 欲しいのは、例えばだナ、うちの工場が盛に働いてるところを描いた絵や、ウダールニクだとか軽騎隊の活動だとかを描いたもん――つまり、われわれの社会主義的建設の記念となる絵がほしいじゃないか」
「異議なし!」
「賛成!」
 工場委員会文化部は、そこで、ニージュニ・ノヴゴロドのプロレタリア美術団に新しい講堂の壁画について交渉をはじめる。場合によってはモスクワへたのんで来る。そこで、画家は絵具箱をもって工場へと出かけて行く。
 だが、画家たちは、構図をきめるにしろ、先ずソヴェト・フォード工場の生産的活動とその革命的意義とを十分理解しなければならぬ。その工場でウダールニクはどんな階級闘争の歴史をもって組織され、成員はどんな連中であるかを知らないで、そこの労働者クラブを飾る壁画、見るものを鼓舞するような絵は描けない。
 芸術家と勤労者とは手にもっている道具の違うことについて新しい自覚をもたざるを得なくなった。画家は労働者と同じものを食べ、その職場で、率直な批判や要求の中にあって、製作する機会が非常に多くなって来た。
 このことは作家についても同じであった。例えば或る作家が同じニージュニ・ノヴゴロドのソヴェト・フォード工場へ、文学ウダールニクの一員としてやって来たとする。
 彼は、労働者の集会に列席し、職場大会に出席し、ときには大通りの「茶飲所《チャイナヤ》」やビヤホールの群集の中にまじりこんで、一般労働者の仲間の雑談をもきく。そして、彼の見聞を記録するとしても、その作家が、ソヴェト・フォード工場の建てられた社会的意義を、社会主義的生産拡大を決心したプロレタリアートの立場から理解していなかったとしたら、果してどんな報告文学が書けるであろう。
 一九二九年から三〇年へかけてソヴェトの芸術がこのようにして生産の場所へ進出し、それと連帯をもった経験は、プロレタリア芸術史の上に実に画期的影響を与えたのである。
 複雑な再建設期の社会主義的前進の意味を理解しない右翼「同伴者」作家群の或るものが大衆から批判されるようになったばかりではない。
 実際に職場のなかへ入って労働者の建設的な生活に混り、それを観察することによって、熱心なプロレタリア芸術家たちは、自分たちがまだ現実の複雑な姿をその根源にまで突入って形象化する弁証法的な手法を充分に獲得していないことをハッキリ自覚したのだ。
 プロレタリア・リアリズムの標語は、既に数年前から問題とされていた。プロレタリア芸術家たちは、マルクシズム・レーニズムの立場から制作を正統なリアリズムの骨格と肉づけとで組立てることに努力して来た。が、農業と工業との生産労働へ日夜接触して見ると、彼等は自身のリアリズムに多分の機械的マルクシズム、生産に対する知識階級的エキゾチシズムが混合していることを自覚して来たのであった。
 ロシア・プロレタリア作家連盟(ラップ)が右翼「同伴者《パプツチキ》」の反革命的要素と飽くまで闘争しながらも、自己の陣営内で、極左的傾向を注意ぶかく批判したわけがここにあるのである。
 プロレタリア詩人、ベズィメンスキーは、一九二九年、ラップが「大衆の中へ!」というスローガンをかかげていた頃「射撃」という詩劇を書いた。
 或る電車製作工場内におけるウダールニクの組織のための闘争とそのウダールニクの献身的な活動の歴史を描いたもので、ベズィメンスキーは、五ヵ年計画の第一年目、モスクワにウダールニクがまだたった十三しかなかったときに、この詩劇を書いたのであった。
 題材はソヴェトの現段階にとって生々しいものであった。彼がこの主題に着目したことには積極的な価値があった。けれどもこの主題の理解のしかた、扱いかたに問題があった。
 ベズィメンスキーは「射撃」の中に、社会主義的善玉・悪玉を簡単に対立させた。その電車製作工場内に、ウダールニクを組織したコムソモールを中心とする男女労働者は、階級的誤謬を犯したいと思っても犯せないような善玉。対立して描かれている工場内反革命分子は、徹頭徹尾の悪玉だ。
 劇の第一幕から終りまで、二つの型の対立的争闘が描かれてあるだけで、卓抜で精力的なコムソモールは、反動傾向の中にまじっている浮動的な分子を正しい建設に協力させ獲得するために組織的努力をすることも見落されているし、推移する工場内の情勢がおのずから反動派の内部に或る動揺や分裂を起させるという現実をも見ていない。
 党は、青年部にそういう消極的な戦術についての指令は、どんな時にでも与えたことはなかったというのが、第一の若い大衆からの批判であった。まして、社会主義的戦線の拡大と強化に熱中している一九二八年以来の実際に即して観察すれば、作家ベズィメンスキーのそういう理解は、明かに一つの非弁証主義的誤りであることが指摘されたのは当然であると思う。
 革命的なプロレタリアートの不屈な意志と細心な努力とが日常生活の実際を貫いて、意識のおくれた勤労者たちの階級的行動に日光が植物に作用するような影響を与えている。
 五ヵ年計画実現の或る政策、特に集団農場化のような場合、はじめはグズグズ疑りぶかく、反動的に小さい自分一身の利害の勘定ばっかりしていた貧農、中農が、やがて農民としての損得から云っても集団化された方が得であることを合点し、仲間の中からの活溌な自発性に刺戟され、おいおい、積極的な集団農場員となってゆく実例は、ほとんどすべての地方の集団農場にも見られた。
 工場内でも、それは同じであった。生産の場所でのウダールニクの価値は、はじめ何人かで組織したウダールニクによって行われる組織ある戦術が次第に一般勤労者の階級的自覚をたかめ、自発性を刺戟して、遂には工場全体をウダールニクに加入させてゆくことにこそある。宗派的に少数でかたまりきって、英雄主義に耽ることではない。ベズィメンスキーは「射撃」の中で、この大切な階級的心理の洞察をおとしているのであった。
 それ等の点について大衆とラップの内部から批判がおこったとき、ベズィメンスキーは云った。「自分は反心理主義だ。現実には肯定と否定との両極しかない。現代ではそれがはっきりしているし、そうなければならないんだ。」
 ベズィメンスキーの、こういう固定した対立の理論の柱は、理論家ベスパーロフのところからもって来られたものであった。ベスパーロフは、文学理論の大家ペレウェルゼフの弟子の一人である。ペレウェルゼフは、一九二九年
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