家達、音楽家と舞踊家、画家などであった。
 芸術ウダールニクは、広い同盟の四方へ出かけ、そこへ文化の光をふりまくと同時に、そこにはじまっている農村または新工場都市の全然これまでとはちがう新しい社会生活、生産労働の形態から発生する心理を、めいめいの芸術の新素材として吸収しようとしたのであった。
 五ヵ年計画が、巨大な困難と闘いながら進捗するにつれて、ソヴェトの芸術全線が、実際上の必要から、はっきり生産の場所へ結びつけられて来た。
 例えば、ゴーリキーの生れたニージュニ・ノヴゴロド市について見よう。一九二七年、このヴォルガ河に面した古い都会はどんな意味をソヴェトのプロレタリアートに対してもっていただろうか?
 ニージュニ・ノヴゴロド市には、夏になると、昔から有名な定期市《ヤールマルカ》が立った。ペルシャの商人までそこに出て来て、何百万ルーブリという取引がある。ニージュニ・ノヴゴロド市の埠頭、嘗てゴーリキーが人足をしたことのある埠頭から、ヴォルガ航行の汽船が出る。母なるヴォルガ河、船唄で世界に知られているこの大河の航行は、実に心地のいい休養だ。ニージュニときくと、恐らく或る者は(来年あたり、
前へ 次へ
全121ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング