て来る人々に向って、いつも一人の人間、つる[#「つる」に傍点]の曲った眼鏡の先生が、あきもせず、いろんな詩、小説、戯曲をよんできかせてやる。
みんなは唸ったり、退屈だと無遠慮に欠伸《あくび》したり、時には亢奮して涙をこぼしたりしながら、読んで呉れる作品をきき幾晩かかかってすっかりそれが終ると、
「さアてネ」
と、てんでに印象を述べだす。他人はいない。コンムーナの者ばっかりだ。何遠慮すべえとめいめいのふだんつかっている言葉で、ふだんの心持から、実際の経験からわり出した標準で批評をする。八年前から、この不思議に熱烈なロシアの田舎教師は、そういう夜々の飾りないみんなの批評を書きつけはじめた。この粘りづよいソヴェトの田舎教師がトポーロフである。国内戦のときにトポーロフはパルチザンを組織し、コルチャック軍と闘った。「五月の朝」が出来るときには本気になってその組織のために働いた。そういう仕事がすむと教区学校以来二十年の経験をかさねた小学校教師として、コンムーナの文化向上を終身の職務としてやっている。
はじめはたった十六ルーブリの月給で、それから十九ルーブリに、一九二七年にはコンムーナの生産経済の成長とともにやっと三十二ルーブリの月給を貰うようになったトポーロフが、何を目当てに余分な精力をつかい、八年間も、冬の夜、夏の夜を農民のために文学作品を読みつづけたのだろう。
トポーロフ自身が農民の出だ。
二十年間、農村の小学校で働いている。革命まで、農村の小学校教師がどんな惨めな生活をしたかということは、チェホフが生きていた時分、屡々公憤をもって人にも話し、書きもした通りである。ロシアの農村での文化活動というものは、ツァーの下では無視され、或るときには意識的に低下させられていた。まして、ロシアの農村で、文学的作品がどう理解されるかなどということは、問題ではなかった。フランス語を喋るロシア人は「農民の芸術に対する野蛮性」をテンからきめてかかっていた。
十月革命は、社会制度の根本的な建て直しとともに、文学をロシアの労農大衆にとってこれまでとまるで違う関係においた。それにも拘らず、農村で文化活動に従事しているトポーロフから見れば、専門のソヴェト文学批評は、少くとも五ヵ年計画が着手されるまで一つの誤謬を犯していた。
先ず、誰にでもわかって、しかも労働者農民的な文学批評というものは、ソ
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