往還に、懐しいロシアの耕地に、黒い鉄の手の[#「黒い鉄の手の」に傍点]出現することは、どうしても理解も我慢も出来なかった。詩を書くと、類の少ない「言葉の調律師」であった彼も、ソヴェト農業というものの本質についての理解のしかたは、昔のムジークそっくりであった。彼は「農業機械のきらいな農民」を客観的に歌うのではない。いきなり、直截に、自身の心をむき出して、そんなものはイヤだ、イヤだと絶叫した。
全露農民作家団は、革命第十年目のソヴェト同盟に生活して、エセーニンがあったほど、そのように素朴ではない。
党は彼等を支持しているけれども、それは農民のうちに社会主義的な生産方法によって行われる新しい農業、農村生活への理解を発育させ、明日の農村のあることを予見する農民のための芸術団体として価値を認めているわけである。
そのことを知っている農民作家は、それ故、田舎娘の赤いエプロンと、ゆっくりした碧い瞳の動き、牛の鳴声、ポプラの若葉に光るガラス玉の頸飾ばかりを書いているのではない。村のコムソモールの生活も、トラクターも書く。しかし、年とった農民がそのトラクターを眺めて溜息をついて疑わしそうに否定的に頭を振れば、農民作家はそれをそれとしてその農民の枠内でだけ把握し描写し、一歩突き進んで、ロシアの歴代の農民はなぜツルゲーニェフやトルストイ時代、農業機械をきらって来たか、その同じ機械ぎらいが、ソヴェト権力の下でさえも猶農業機械に対して排他的であり、ガンコであることは、どういうことを意味するかという、階級的根源にまでは触れて行こうとしない。
一八六一年の農奴解放で一杯くったロシアの貧農は、生存権を守るために「旦那」に対して全く懐疑的にならずにいられなかった。二十世紀初頭に、ロシアの地主は搾取の面から、おくれたロシアの農場の資本主義経営、労働の合理化を考えて、農場へドイツやイギリスの耕作機械を買いこんだ。
農民たちは、脱いだ帽子を手にもって地主の前へ並び、農業機械を驚きの目で見つめた。指でさわって見た。或は暫く使って見た。が、元の鋤へ逆転してもうどうしてもその原始的な器具をはなさず、「復活」に描かれているように地主トルストイを歎息させたのは何故であったろうか?
大地主とその支配人の首枷の下で、農民は、耕作機が彼等を幸福にする道具ではないことを、本能でかぎつけた。彼等は、それを、支配者
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