十一月から三〇年の一月まで、コムアカデミー内文学言語部によって彼の哲学及び文学理論上の誤謬を指摘された。後、ベスパーロフは自己批判してラップに加盟したのであった。それにも拘らずベスパーロフの理論の中には、多分な機械主義があり、詩人ベズィメンスキーの極左主義と結びついた。
 大衆は、集団農場化の実践において、仕事が困難であるため特別に多かった極左的な誤謬を、党が、どんなに厳密に批判したかを、よく知っている。農業の社会主義化に関するブハーリンの右翼的誤謬といっしょに、極左的誤謬も、スターリンのステートメントによって屡々指摘批判された。
 プロレタリア文学の領域でも左右両翼への偏向がプロレタリアートによって正当な批判を受けたのであった。
 プロレタリア・リアリズムにむかっての具体的な出直しの試みとして、ソヴェトの文学は大胆に生産の場所からの生のままの報告を、領分の中にとりいれはじめた。
 ラップの機関紙『十月《オクチャーブリ》』をあけて見ると、生活記録とか、生活の道とかいう特別欄がある。そこに短篇風な作品がのせられているのだが、例えば「二週間」という題と筆者の名と更に「鉛筆で」とか「ブロックノートより」とか、「日記から」などと註が付されている。作者が、集団農場へ行って蒔つけ時の二週間を暮して、そこに行われる労働、農場員の性格、彼等の社会主義的達成などに関する見聞をまとめたものだ。
 素材はほんとに見たまま、聞いたままだ。文学的趣味で彩飾されたものではない。小説ではない。しかし、論文でもないし、ただの外面的な旅行記でもない。社会主義化されてゆく生産の場所とそこの人間との中からの事実的記録だ。
 ソヴェト同盟では、そういうプロレタリア文学の新形式にまだこれぞといってきまった名がつけられなかったうちに、ドイツ人が持ち前の学者気質で「報告文学」という名称を与えた。(その「報告文学」という名は更に忽ち日本につたわった。)
 同時に、若いコムソモール等が、職業的な作家としてではなく党員として麦穀買つけの実際に二年間も働いたときの経験を記録した「コサック村」などが出版紹介され、好評を博した。

 五ヵ年計画によって、生産労働者の自発性《イニシアチーブ》がたかまって来るにつれて彼等の文化的水準もメキメキ盛りあがって来た。
「ソヴェトのプロレタリアートは、もう芸術の消費者ではない。生産者と
前へ 次へ
全61ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング