社会主義的生産拡大を決心したプロレタリアートの立場から理解していなかったとしたら、果してどんな報告文学が書けるであろう。
一九二九年から三〇年へかけてソヴェトの芸術がこのようにして生産の場所へ進出し、それと連帯をもった経験は、プロレタリア芸術史の上に実に画期的影響を与えたのである。
複雑な再建設期の社会主義的前進の意味を理解しない右翼「同伴者」作家群の或るものが大衆から批判されるようになったばかりではない。
実際に職場のなかへ入って労働者の建設的な生活に混り、それを観察することによって、熱心なプロレタリア芸術家たちは、自分たちがまだ現実の複雑な姿をその根源にまで突入って形象化する弁証法的な手法を充分に獲得していないことをハッキリ自覚したのだ。
プロレタリア・リアリズムの標語は、既に数年前から問題とされていた。プロレタリア芸術家たちは、マルクシズム・レーニズムの立場から制作を正統なリアリズムの骨格と肉づけとで組立てることに努力して来た。が、農業と工業との生産労働へ日夜接触して見ると、彼等は自身のリアリズムに多分の機械的マルクシズム、生産に対する知識階級的エキゾチシズムが混合していることを自覚して来たのであった。
ロシア・プロレタリア作家連盟(ラップ)が右翼「同伴者《パプツチキ》」の反革命的要素と飽くまで闘争しながらも、自己の陣営内で、極左的傾向を注意ぶかく批判したわけがここにあるのである。
プロレタリア詩人、ベズィメンスキーは、一九二九年、ラップが「大衆の中へ!」というスローガンをかかげていた頃「射撃」という詩劇を書いた。
或る電車製作工場内におけるウダールニクの組織のための闘争とそのウダールニクの献身的な活動の歴史を描いたもので、ベズィメンスキーは、五ヵ年計画の第一年目、モスクワにウダールニクがまだたった十三しかなかったときに、この詩劇を書いたのであった。
題材はソヴェトの現段階にとって生々しいものであった。彼がこの主題に着目したことには積極的な価値があった。けれどもこの主題の理解のしかた、扱いかたに問題があった。
ベズィメンスキーは「射撃」の中に、社会主義的善玉・悪玉を簡単に対立させた。その電車製作工場内に、ウダールニクを組織したコムソモールを中心とする男女労働者は、階級的誤謬を犯したいと思っても犯せないような善玉。対立して描かれている工場内反革
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