葉っきり済んでしまう程、現実の階級闘争は単純でない。事実が単純でない以上、大衆がいつの間にかあの憎むべき変通自在性を過少評価するような固定した形にだけ様式化して扱うのは危険だ。――
この事は、あらゆる芸術の分野に亙って再吟味された。
文学の領域では、既に一九二九年プロレタリア・リアリズム、進んで唯物弁証法的創作方法の問題が探求された当時、類型化に対する注意の一つとして批判された。
主として漫画、喜劇における登場人物の様式化が問題になった前後、戯曲作家ブルガーコフが「赤紫島《バグローブィエオーストロ》」という喜劇風オペレットを書いた。
同じブルガーコフが数年前「トゥルビーノフ家の数日」という国内戦時代の動揺、変転する中流家庭生活を主題とした脚本を書いた。モスクワ芸術座が一九二八年から九年の春頃まで上演し一部からひどく受けた。大衆的にも或る程度まで受け入れられたが、段々批判が起って、五ヵ年計画着手とともに、上演目録から削られた。理由は、脚本が中流の家庭生活というものをちっとも革命的歴史の進行の角度から批判せず、ただ現象的に描写している。根本的な社会変革につれて起る現象の必然性を、社会主義社会建設の総体との関係において発展的にとらえず、消極的にブルジョア文学が一つの社会的破局を扱ったような悲劇、または破局というように表現している。
「赤紫島」は、劇中劇で「赤紫島」の革命を織り込み、ソヴェト同盟の劇場の内幕を諷刺したりしている。カーメルヌイ劇場で、タイーロフが未来派じみた極めて派手で綺麗な舞台装置で上演した。
この劇中劇ではソヴェト同盟の劇場でも、小道具なんかに凝りすぎ、ウンと金をかけてしまったのを、管理局からやって来た役人へは胡魔化して報告する場面その他、見物が笑い出すところは相当ある。
空想的な扮装したレヴューの土人みたいな「赤紫島」の住民が何かのキッカケで、至極安直に革命を遂行し、ツァーの追っ払いをやり、目出度し目出度しとなるのだが、ソヴェト同盟のルバーシカを着た観衆はゾロゾロ、カーメルヌイ劇場から出て来ながら、この劇全体から受けた何だかいやな印象について議論した。
ブルガーコフが諷刺しているのはソヴェトの舞台裏ばかりじゃない。彼は、革命という事業をも「赤紫島」で諷刺している。真面目にとり扱っているような風ではあるが、そこには狡猾にひやかしが雑《ま》ぜら
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