たチェッコ・スロヴァキアの作品である。
 多くの移動劇団、或は「生きた新聞」は身振狂言で帝国主義とファシズムに対する攻撃を始めたが、ここで一つ際立つ芸術上の現象がある。それは諷刺的要素の増大ということだ。
 芸術上、諷刺性格が二通りある。一つは手投弾のように迅速な、的確に敵をバクロ、攻撃する役に立つ性格。他の一つは、自己批判の表現としての諷刺がある。
 或るもの、或る事を見て、笑う。もうそこに一種の批判がある。ソヴェト同盟の芸術家、特に映画、演劇、絵画の作者たちは随分これまで上手に諷刺を生かして来た。
『鰐』というソヴェト諷刺雑誌がある。それを買って頁をめくると、五ヵ年計画の達成のために、ソヴェト同盟の大衆がどんな社会的・階級的自己批判をやっているか。その自己批判の焦点が発展的に移って来ている過程までわかる。
 ファシスト、ブルジョアジー、官僚・軍閥、懶けて飲んだくれな非階級的労働者、官僚主義で形式主義で能なしの党員、社会ファシストとなった民主主義者などは、ソヴェト同盟の或る種の芸術の中ではもう漫画的に様式化されてさえいる。
 ソラ出た! ハッハッハッ。実に分りが早い。一目そういう者の姿を見ると、ソヴェト同盟の大衆が謂わば階級的に用意している哄笑、嘲笑が火花のようにとび散るのだ。
 成程、人形芝居をやったり、身振狂言をやったり、漫画の或る場合なんかは、こうなっていれば手っ取りばやい。一応直ぐわかる。だが、二応、三応と、実際の客観的事情に照らし合わせて考えて見た場合、こういう風に様式化したまんまの人物を無制限につかって、どの程度のリアリスティックな芸術の感銘を与えることが出来るかという点は、疑問になって来る。
 何故なら、ソヴェト同盟で諷刺的に様式化されたブルジョアジーは、いつでも燕尾服にシルク・ハットで、太い金鎖りをデブ腹の上にたらし、小指にダイアモンドをキラつかして、葉巻をふかしている。
 しかし実際に、どんな場合でも、ブルジョアジーはそんなきまりきった風体しかしていないだろうか? どうして! 彼等は自身の利益を守る必要に応じて、技師にもなれば、教師にもなり、ソヴェト同盟では、現に階級の闘士ボルシェヴィキらしい見せかけをした反革命分子さえ発見しているではないか。
 ソヴェト同盟の舞台の上、絵の上にきまった形でブルジョアジーが登場する。大衆が笑殺する。それで根っきり
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