五〇年代の文学とそこにある問題
宮本百合子
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)読《よみ》もの
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)もう|流行はずれ《アウト・オブ・ファッション》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「弓+享」、第3水準1−84−22]
−−
一
十二月号の雑誌や新聞には、例年のしきたりで、いくたりかの作家・評論家によって、それぞれの角度から一九四九年の文壇が語られた。その一年に注目すべき作品を生んだ作家たち、明日に属望される新人も、作品に即してあげられた。
これらのしめくくりは、しかし、去年という三百六十五日の間にわたしたちが生活と文学との肌身へじかにうけて生きて来た激しい暑さ、さむさ、ほこりっぽい複雑さのいろいろを、その深さ、その多面なひろがりそのものにおいて整理したものであると言えたであろうか。少くともわたしは、どこかくさび[#「くさび」に傍点]のぬけた概括が多かったと感じる。そこにあるはずの問題がちゃんとおもてにとり出して、うけるだけの扱いをうけていないように思える。去年の花床として、見わたしておもてに見える高低だけ言われている土のなかには、その花が咲いたら面白いだろうと思う球根が、いくつか放ったらかしになっている。そんな風にも感じる。そして、この感じは、まとめて表現しにくいままに、案外ひろく人々の心のどこかでは感じられている実感ではなかろうかと思う。
一九四九年は、いい年でなかった。戦後四年めになって、日本の社会と文化とは、権力がのぞんでいる民主化抑圧の第四の時期を経験した。ワン・マン彼自身が国際茶坊主頭である。茶坊主政治は、護符をいただいては、それを一枚一枚とポツダム宣言の上に貼りつけ、憲法の本質を封じ、人権憲章はただの文章ででもあるかのように、屈従の鳥居を次から次へ建てつらねた。
おととしの十二月二十日すぎに、巣鴨から釈放されて、社会生活にまぎれこんで来た児玉誉士夫、安倍源基らの人々の氏名経歴を思い出して見れば、それにつづく一九四九年の権力が、そのかげにどんな要素をよりつよく含むようになったかということはおのずから明白でなければならない。過去三年間の経験では、まだ日本の人々の間に民主的な生活感情が確立しかねていたうちに、既成の勢力は全力をつくして、一応はびこることに成功した。一九四九年が、国内的に誰にとってもいい年でなかったという現実は、日本の民主主義運動のやりかたや、解放運動の科学的な理論の骨格そのものについて沈潜した再検討を必要とする人々の気持のモメントともなっている。
この荒い波は、直接間接文学に影響を与えずにいなかった。言論機関としてのジャーナリズムがつよい統制、整備のもとにおかれたのは一九四八年からだったが、その方法は、昔からみると比べものにならず技術的であった。ゴロツキ新聞の排除、用紙配給の是正、購読者の要求への即応という掘割をとおって、戦後の小新聞は、民主的な性格のものをふくめて、大企業新聞に吸収された。そして、一九四九年の秋の新聞週間には「新聞のゆくところ自由あり」と、記者たち自身にとってもけげんであろうような標語が示された。日配の解体、再編成は、集中排除法という経済面から強行されて、三ヵ月以上にわたった出版界の経済封鎖の過程では、大出版企業者をのぞく、すべての出版事業がいちじるしい危機にさらされた。こんにち揺がない大出版企業の代表者たちが、文化上どのような性質をもつ存在であるかということは、渡米ラッシュの各界代表選出にさいして、出版界だけが人選にゆき悩んでいる実状に語られている。
一九四九年度の文学現象の特質は、このつくられた恐慌[#「恐慌」に傍点]の裏づけぬきに観察されない。「所謂戦後派と言われたヨーロッパ的小説方法の実践者の運動が、出版景気の減退に伴って不利になって来た」(日本文芸家協会編『創作代表作選集』第四の序文――伊藤整)不利は、物的事情にとどまらず、業者とその気分に雷同する一部の作家間に、もうアプレ・ゲールでもないだろう、と咲きのこりの昼顔でも見るような態度をひきおこした。皮肉なことは、戦後派とよばれた近代文学同人たちの大部分が、前年の下半期から一九四九年をとおして、インテリゲンチャとしてそれぞれに着目すべき社会的文学的前進を行っていたことである。個人主義の開花時代の近代ヨーロッパの文学精神を、日本で窒息させられていた「自我」「主体」の確立の主張の上に絵どる段階から成長して来て、日本の社会現実のうちで自我を存在させ発展させるそのことのためにも、日本ではすべての市民に共通な基本的な人権の擁護が必要であることが把握されはじめた。世界ファシズムと戦争挑発に対する抵抗を組織することが、世界人民の歴史の課題であり、世界文学につながる日本の文学の新しい世紀の精神であることが実感されて来て、そのための実践も着手されていたのである。
したがって、出版恐慌を理由として、これらの戦後派の先輩たちがジャーナリズムの上にうけた不利――すなわち、社会的文学的発言の範囲の縮小の本質は、とりもなおさず、理性に立つ現実探求の精神の主張、国の内外のファシズムと戦争挑発に対する抗議と抵抗の削減であった。
この方法が成功したことは、一部の作家にとって、寒心すべきことでもなかったし、未来のために警戒するべきことともうけとられていない。むしろ、既成勢力の安定感として感じとられている。『群像』十二月号の創作月評座談会で、林房雄が、深刻ぶり、ということについて語っている気分、ポーズに、はっきりあらわれている。自己陶酔と独善にうるさい覚醒をもとめてやまない近代精神、理性へのよび声そのものが、この種類の作家たちには気にそまない軽蔑すべきことであるのだろう。
過去三年の間、戦争に協力したという事情から消極な生活にあった作家群が、一九四九年に入ってからは、顔をそろえてぞっくりと登場した。むかし『新潮』などの慣例であった月評座談会の形式が『文学界』その他に新しい文学行政的顔ぶれで復活した。その席では、二十世紀のこの時期に動いている世界社会の苦悩、相剋、発展へのつよい意欲とその実験にかかわる文学の、原理的な諸問題について究明される態度は全く消された。印象批評と放談のうちに、ジャーナリズムと読者とに対するある種のデモンストレーションが行われ、批評は個々人の印象批評にとどまった。よかれ、あしかれ、日本の民主主義文学の運動にふれたり、それをまともに論議したりすることは、語り手自身のファッション・ショウめいているそのような場面ではもう|流行はずれ《アウト・オブ・ファッション》の気風がつくられた。民主的評論家は沈黙し、ジャーナリズムが釣り出した新人[#「新人」に傍点]でない若い作家のための場面のゆとりは奪われた。次の戦争に利用することのできる八千五百万の人口と計算されているその日本の人民の数のうちに在りながら、野暮な詮議はどこかのひと隅へおしこんで、望月のかけるところない群々の饗宴がつづいた姿だった。(民主主義の文学運動が一九四九年に入ってのびのびと展開しなかった理由には、このような外部からの事情にからんできわめて複雑で、興味の深い研究課題が内在している。それは、こんにちの政治と文学、政治の優位性と云われるもの、性格に関する問題であって、その点は別項でふれて見たい。)
二
前年までの肉体文学は、よりひろい風俗文学、中間小説とよばれる読《よみ》もの小説の氾濫に合流した。これらの文学は、戦争中、こぞってそのほとんどが戦争肯定をしていたように、きょうはきょうなりのなまぐさい風のまにまに、こまかく深く考えること無用。自分から頭と心を働かして現実を眺めること無用。ラジオの娯楽版、大人と子供の世界をひたす漫画とともに、愚民教育の掘割の幅をひろげた。一九四九年に、この近代擬装エナメルの色どりはげしいギラギラした流れの勢が、どのように猛烈であったかについて『人間』十二月号の丸山真男・高見順対談の中で、高見順が次のように云っている。
「芸術家の方も自重しませんと……。終戦後のわれわれの恥を云えば、作家の態度が、一種のセンセーショナリスムをねらうみたいになってしまってね。人の魂に小さな声で囁きかけてゆくのでは駄目で、往来の真ン中で、わあッと大声をあげる式でないと、声が聴えないのです。そのかわり大きな声をたくさん出せればいいわけです。明治以来こんなことは、はじめてでしょう。こんなに作家が大声をあげれば、あぶく銭がとれるのも、初めてのことでしょう。」「菊池寛と大臣の台所の費用が同じだと云って、文士も偉くなったとほめられたものでしたが、今は大臣以上ですからね、大きな声を出しさえすれば……。」
風俗小説が、その世相複写の一定の限界に達してくれば、それらの作者の生活範囲での種さがしと、センセーショナルな事件をあさる職業心理はさけがたいだろう。一九四九年は、この面でも、これまでの文学の場面にはなかった奇怪なモデル出入りが発生した。その代表的なものは井上友一郎の「絶壁」に関連する事件であった。一般の読者は自然にあの一篇の小説をよんだ。そして、なぜこの節は「晩菊」にしろ、女の肉体の老いと社会的野心或は金銭の慾のくみ合わせが、その本質の陳腐さにかかわらず、作者の興味をひくのだろうかと、人工的な照明の下にあやつられている「絶壁」の男女の姿を眺めたにすぎなかったと思う。ところが、不思議なことに、その作品のモデルだとみずから名乗って作品のその醜さが当事者たちの名誉を毀損する、法律に訴えると、ジャーナリズムに大きな声をあげた男女の作家があらわれた。
他人にわからない文壇生棲間のもつれでもあってのことだろうが、この全く非文学的なセンセーションは作者が希望するしないにかかわらず「絶壁」を問題作とする一助となり、モデルであると名のり出た人々を脚燈の前に立たせた。
センセーショナリズムに対して抵抗を失った風俗文学の条件反射は、人情と芸大事の宗匠、里見※[#「弓+享」、第3水準1−84−22]や久保田万太郎などまでをいつかその創作のモティーヴのとらえかたにおいて影響しているように見える。由起しげ子の小説「警視総監の笑い」のモデルであったという老紳士が鎌倉で自殺した事件がおこった。鎌倉に住む作家で、その老紳士と交際のあったらしい里見※[#「弓+享」、第3水準1−84−22]、久保田万太郎に『読売』がインタービューしたとき、作家の立場として、由起しげ子の小説と結びつけてさわぎにすることの間違いは力説されなかった。久保田万太郎は、「近く『あきしお』という小説をかいてその人の霊に捧げようと思う」と語り、里見※[#「弓+享」、第3水準1−84−22]は、「その死がなんのためだかわからないが、『沖』という小説を近く発表する」と各自、事件につながる自作予告をした。
センセーショナリズムは、内剛外屈の吉田内閣が民主化すてながしの一九四九年度筋書として極端にまで使用した方法でもあった。政治と文化とを一貫して、世相を押しきったこのような潮流は、一九四九年度の毎日文化賞の準備調査、読売新聞社の良書ベスト・テンの調査などで、諸々批判のおこっている永井ものがトップをしめ、「宮本武蔵」や「親鸞」「風とともに去りぬ」「細雪」「流れる星は生きている」などが多くの票を占めるという結果をもたらした。毎日文化賞の準備調査では、文学の部で「親鸞」がトップであったが、詮衡委員会は「中島敦全集」をおした。
ところで、注目されることは、いわゆる風俗文学の作者たち、中間小説と称するよみものがかけないものは文学上の半人足であるとするような作家たち自身が、他の半面では、いわゆる純文学とよばれて来た本当の文学[#「本当の文学」に傍点]に恋着を示している点である。これらの作家たちは、月評や文学談
次へ
全6ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング