っていないからだということを知っているであろう。彼は今日からのちどのようにして、どこで彼の刃そのものをより強くきたえる材料を見出してくるだろうか。彼はどういうモメントで、あえて冴えた彼の刃をこぼす勇戦を示すであろうか。これらのすべてが研究されなければならない。
民主戦線ではその広さと、そこに包括される社会活動の部面が多様であるにかかわらず、他の一面ではこれまで社会各層がもたなかった互いの共通語をもつようになってきている。労働者階級のファシズム反対という声と、学者たちが学問の自由のために叫ぶファシズム反対の声は、国内的にひとつ響きにとけあうばかりか、国際的にこだまする声である。
文学は文学者と文学愛好家だけのもちものではなくなってきている。私小説からの歴史的な脱出の戸口は、文学の外のこのような場所にある。したがって文学の創作方法は、科学の定理のように抽象されることは決してありえないし、それでこそ文学の文学である人間性があるのだけれども、歴史の進行の方向と階級間の関係についてのより客観的な把握は、おのずから文学の創作方法も、個々の作家のテムペラメントにだけ頼るものではなくなってくる。
批判的リアリズム、一九一七年以後のプロレタリア・リアリズム。それから一九三二年以後の社会主義的リアリズム。この三つの創作方法は、日本の民主革命の広い凹凸の多い戦線にとって、それぞれの階級の進みゆく歩幅につれて新しい文学を生み出してゆくよすがであろう。桑原武夫が、民主主義文学であるならばそれは社会主義的リアリズムの手法をもつべきものであるとして、「宮本百合子論」の中に、スタインベックのソヴェト紀行をあげていた。社会主義的リアリズムは、労働者階級の勝利と社会主義社会への展望にたっているから、当然労働者階級の文学の創作方法であり、党員作家の創作の方法でありうる。けれども、たとえばスタインベックのダイナミックな手法が、彼の旅行記の中でソヴェト社会の建設の姿を典型的につかむことに成功しているにしろ、彼がブルジョア・デモクラシーとプロレタリアートの階級的独裁の本質的なちがいを理解せず、自国の金融資本の独裁をみずにスターリンの独裁[#「スターリンの独裁」に傍点]を云々していることは、スタインベックが、社会主義的リアリズムを把握していないことを示している。
一九五〇年代において民主主義文学運動は、どのように日本の民主革命の道にひびく人民の声々を伝えることができるだろうか。現代文学のさまざまなコムプレックスをどのように発展的にときほぐして、日本の人民の文学の歴史を世界史の中に意義あるものとさせうるだろうか。
底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
1979(昭和54)年11月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
初出:同上
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
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