あった。『ナップ』『プロレタリア文学』もそれに似た性格をもたずにいられなかったし、プロレタリア文化連盟は、地下におかれた階級的組織の氷山が、わずかに合法の水面に尖端を出した姿としての性質をもった。サークルにしても、そうなった。
 当時のこのようなプロレタリア文化・文学運動が佐野・鍋山の転向のあおりによって息の根をとめられた一九三三―三四年ごろ、プロレタリア文化・文学の組織に属していたすべてのものが、検事局製の運動の自己批判というものを押しつけられた。それは従来のプロレタリア文化・文学運動は、その指導者であった蔵原惟人、小林多喜二、宮本顕治らの政治主義的偏向によって、文化活動から政治活動へ追いこまれ、創造力を枯渇させ云々という筋であった。
 その後の十余年間に、文学に心をよせる人々が読むことのできた文学理論的な書物と云えば、主として、当時の反プロレタリア文学の筆者たち、林房雄、山田清三郎、亀井勝一郎その他の著作だった。社会主義リアリズムの問題さえもその階級的な要点を歪曲されたまま読まれるしかなかった。
 民主主義文学運動という声とともに、一部から反小林多喜二論は、反特攻隊精神と同性質のものであるかのように繁昌し、それとのたたかいに忙殺された。民主主義文学運動の中に、労働者階級の使命を明らかにして、おのずからプロレタリア文学の伝統のどの部分が継承されなければならないか、という点を押し出すことは、そのたたかいの中にとかされた。一つには、もとのプロレタリア文学時代活動した人々が、当然民主主義文学運動を提唱することになったから、ある意味では、かえって、「昔のプロレタリア文学ではないもの」を要求する空気にひかれたこともある。これらの人々の内部に同じような要求もなかったとは云えないと思う。
 民主主義文学がもとのプロレタリア文学とちがうところは、階級の問題もただテーマ小説としてかかず、「内から書く」民主的ヒューマニズムに立つところだとされた。一九四七年の夏ごろ、文学サークル協議会の指導者の一人だった島田政雄は、日本の労働者階級、勤労者の現実では、労働者階級の勝利、社会主義社会を展望する社会主義的リアリズムの創作方法を云々するのは尚早であって、「人民的リアリズム」を提唱すべきであるという段階論を発表したりした。
 この発言は、一九四七年の二・一ストとよばれている時期の前後に日本の勤労生活者の文化水準は半封建的でおくれているから、文学の創造をいうよりもダンスが直接にそれらの人々の文化欲求をみたすものであるという考えが一部におこった。この期間、実際には勤労する人々の中から、いくたりかの詩をかき、小説をかき、戯曲を書く人々が生れていた。この間、大衆の健全な娯楽、階級的な文化の一般的啓蒙、あらゆる角度と種類からの労働者階級の文学、民主主義文学の創造と普及とは、必ずしもそれぞれの特殊性を有機的にいかすくみ合わせで組立てられてもいなかったし、動かされてもいなかった。
 一九四八年の秋以後、中国の人民民主主義革命は勝利に近づきつつある、そして、それは勝利するということが、世界の目にあきらかとなった。
 おもしろいことは、日本の進歩的な人々の感情の一部には、中国革命に対しては、ソヴェト同盟の社会主義社会の建設に対するよりも、東ヨーロッパの人民民主主義に対するよりも、ずっと寛大さがあるということである。一部の人々の間には中共に対するトスカさえあると云えると思う。
 帝国主義のレンズが集中している上海に入った中共の解放軍が、その行動の実際で日本の新聞にさえ一行のデマゴギーを報道流布することを許さなかった事実は、真によろこばしい、そして敬服すべきことだった。沈毅、純朴な若い中国の人民のまもりてたちを思いみることができた。
 中国人民の独立の近づきつつあることは、日本の国内情勢に微妙な反応を与えた。一方の力は、日本を防壁として確立させるために一層積極の方法を押しすすめはじめた。それに反して、労働者階級は、そして民主的な人々は、中国の解放を、アジアの民主勢力の決定的なプラスと見たのは正当であり、世界民主勢力のより一歩の勝利と見たのも正当であった。
 同時に、一部には、何かの錯覚めいた性急さが湧いた。国内の反民主主義的な圧力、抑圧に抵抗しずにいられない客観的な必然がより一般的に生じたとともに、日本の民主勢力の攻勢が何かのたかまりをもてば、どうやら中国の勝利につれて何かのゴールに、達しでもしそうな気分が浮動した。国内の情勢をはかる場合、プロレタリアートの先進部隊としての役割が改めて重大関心の焦点となった。
 民主主義文学運動が、その本来の性質にふくんでいる人民としての政治的要素、階級文学としての政治性は、ここにおいて一九四八年末から一九四九年にかけ、一つの複雑で貴重な試煉を経なければならないことになった。
 一九四六年から四七年にかけて日本全国にストライキの波が高まっていた時期、民主主義文学運動は、労働者階級とともに一般的に勤労者を包括した形をとり、組合の文化部は民主主義文化・文学に対して、ストライキとの連関で、文化動員を主とした。経済的・政治的活動に全生活と精力を集注する大部分の組合員と、その一部にはいわゆる文学趣味も滲透している文学サークルの人々との間に、同じ働く人々ながら、現実に向う感情には、いくらかのくいちがいも生じた。一九四六―七年、日本の全産業面に労働組合が組織され、そこに党細胞が公然と活動しはじめたことは日本の労働者、勤労者すべてにとって全く新しい歴史のはじまりであった。そして、この期間は同時に、戦時中最悪の労働条件に虐使されて来た勤労男女が、基本的な人権と労働の権利にたって、インフレーションとたたかいながら、日本の労働条件を半植民地の低さから解放しようと奮闘した。外にあらわれた形では大小のストライキ続きだったこの一九四六―七年に、しかし勤労しストライキする人々の間から、「太陽のない街」は一つも書かれなかった。『勤労者文学作品集』の内容は、この事実をかたっている。
 永い戦争の間、八絋一宇精神にしたがえられて、「日本が勝つためには」と追いつかわれて来た働く人々の間からは、スパイ制度と憲兵の活動によって、労働者階級として読むべき政治的な書物は根こそぎ奪われていたし、働く人々の日常からの判断としておこる当然の戦争に対する疑問や批判も、刑罰をもって監視されて来た。
 したがって、八月十五日までは勤労動員で奴隷的労働をしていた青年労働者たちが、三ヵ月ののち、そこに出来た労働組合の青年部員と組織されたにしても、その気持がすっぱりと階級の意識と階級の規律とにつらぬかれた青年労働者として転換しないのはやむを得ないことであった。組合の政治教育、文化・文学教育も、政治教育はとくに活溌ではあったが、それとても自分のところの組合組織の確立、ストライキ、他の組合のストライキの応援と、職場の活動的な分子ほど、彼の二十四時間は寸刻のゆとりもなかった。この種の事情は産別宣伝部で発行した『官憲の暴行』という各職場からのルポルタージュをよむと、誰にしても諒解せずにはいられない。
 この重大な時期に民主主義文学運動の中軸としての労働者階級としての文学は、小市民をふくむ一般勤労者の文学とどうちがい、どのような方向をもつべきかということが明瞭にされなければならなかった。ところが、文学の領野にも、戦禍はまざまざとしていた。当時はプロレタリア作家として歴史的な存在意義をもつ小林多喜二を否定的に評価する傾向とたたかうことが『新日本文学』の一つの主な任務であった。また一般的にはそのころの『近代文学』が主張していた個人の自我の確立の提唱と民主主義にさえも示される政治不信の気分を、正常な社会と文学の関係への認識におき直す仕事があった。したがって、この時期、文学と政治の問題は、十数年以前の昔にさえさかのぼって、文学における政治の優位についての理解から語り出さなければならない有様だった。そして、働く人の間から生れる作品は、題材も主題も働く人々の生活から湧いたものであっても、当時の大規模に展開されつつある労働者階級としての動きはその作品の中につかまえられなかった。やがてこれらの職場からの作品の日常性への膠着が、注意のもとにてらし出されはじめた。もとから小説をかいていたプロレタリア文学時代からの作家たちは、何しろ十余年間、書きたく話したいテーマについて口かせをはめられていたのであったから、各人各様に、先ず書かずにいられない題材によって、云わずにいられないテーマを描きはじめた。「妻よねむれ」にしろ「私の東京地図」にしろ、「播州平野」「風知草」ことごとく、その種のモティーヴに立ち、作品の本質も戦争による人民生活の破壊、治安維持法が行って来た非人間的な抑圧への抗議であった。それぞれの角度から日本の民主革命に結びついた。「五勺の酒」はこれらの作品のなかで独特な意味と問題とをもつ作品であった。

          五

 労働者階級の歴史的任務の性格をひきぬいた「人民的リアリズム」の創作方法についての論が、文学サークルそのものの指導者から云い出されていたような職場の文学の空気はそのままなりに、一九四八年の後半期、中国の人民革命の勝利の見とおしとともに、日本の民主主義文学の立場からの科学的な検討や分析なしに、これまでの作品活動――徳永、宮本、佐多などをこめて――は労働者階級にとって役ないものだというようなおおざっぱな発言がおこった。
 注目すべきことは、この文学的でないばかりか政治的でさえもない発言に応じて、専門文学者と職場作家との間に、一部の文化活動家とサークル員の側からの対立感情が醸成されたことである。「人民的リアリズム」論に無批判だった文学サークルの一部は、文化活動にしたがう一部の人々とともに、人民的リアリズム論者そのものをふくめて、いわゆる専門作家とその作品への無根拠な否定に従事した。一九四八年の日本民主主義文化連盟第二回「文化の会」および、ひきつづいてもたれた新日本文学会第四回大会は、この種の傾向のひとり舞台の観があった。そこでは作家・評論家によって、文化・文学について具体的な討議がされるよりも、特殊な、文化活動家と名づけられる人々の、その人たちの理解での政治的発言が圧倒した。
 これは、明らかに普通でない空気であった。まじめに文化・文学の運動にしたがい、創作もして行こうとしている人々は、民主主義文化・文学運動の内をかき乱している不安、無規準、得たいのしれない政治性[#「政治性」に傍点]に影響されて、自分たちの活動の基準をどこにおいたら、たたかれないで育つことができるのかを思い迷うこころもちにもおかれた。
 一九四九年に、職場の労働者作家は、ストライキをかけ、職場の作家の指導力が発揮されなければならないと云われたとき、過去二三年のうちに新しく職場から生れて来た若い作家たちのある人々は「自分がいまかきたいことと、書かなければならないこと」との間にある、実感の不調和に苦しんだ。そのひと一人一人としての労働者、および作家の成長の過程で、今すぐにもかきたいことは、労働者作家としてストライキを書かないということはあり得ないとされる「書かなければならないこと」と一致しない。ストライキの時代には、ひまがなくて、その人として書きたいと思いながら書けずにいたことを今書こうとする時間をもてば、もう一般情勢は中国革命の達成、労働者の主導的任務の強調におかれている、そのくいちがいもある。また一九四六―七年にかけて労働者階級によって経験された広汎な闘争が、前述のような戦争中の階級意識の剥奪をとりかえすために十分な政治教育が間に合わなかったために、経済主義的にならざるを得なかった。社会の生きた関係の微妙さは、一九四五年冬以後は共産党が勤労人民の合法政党として公然と存在し、組合内の党細胞の活動が自由であったけれども、一方、労働者の自主的な階級政治への認識や経験が失われているという戦後的条件と結びついて、職場の大規模な闘争は、必ず
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