(民主主義の文学運動が一九四九年に入ってのびのびと展開しなかった理由には、このような外部からの事情にからんできわめて複雑で、興味の深い研究課題が内在している。それは、こんにちの政治と文学、政治の優位性と云われるもの、性格に関する問題であって、その点は別項でふれて見たい。)
二
前年までの肉体文学は、よりひろい風俗文学、中間小説とよばれる読《よみ》もの小説の氾濫に合流した。これらの文学は、戦争中、こぞってそのほとんどが戦争肯定をしていたように、きょうはきょうなりのなまぐさい風のまにまに、こまかく深く考えること無用。自分から頭と心を働かして現実を眺めること無用。ラジオの娯楽版、大人と子供の世界をひたす漫画とともに、愚民教育の掘割の幅をひろげた。一九四九年に、この近代擬装エナメルの色どりはげしいギラギラした流れの勢が、どのように猛烈であったかについて『人間』十二月号の丸山真男・高見順対談の中で、高見順が次のように云っている。
「芸術家の方も自重しませんと……。終戦後のわれわれの恥を云えば、作家の態度が、一種のセンセーショナリスムをねらうみたいになってしまってね。人の
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