ための統一戦線の必要の実感は、一九三三年以後の人民戦線運動のころよりも、深くひろく、肉体的になっている。それは、アジアにおいての日本が、世界人類に対して独特な苦しい良心的立場におかれているという事実に立っている。朝鮮が隷属からときはなされ、中華人民共和国が確立し、アジアの半植民地、植民地のすべての土地に民族自立の運動がおこっていて、それぞれに成功に進みつつあるとき、自身としては武器をすてている日本人民が、全アジアに対して、小さいけれども強い毒をふくんだ矢じりのようなものとして仕上げられようとしていることについての苦痛と抵抗とである。
一九五〇年代の日本の人民的な諸活動の骨髄は文学をふくめて、このカリエスをどのように治療してゆくかという課題に向わないわけにはゆかない。日本の現代文学は、この角度から、世界文学のうちに何かの意義をもつものであるか、或は、空文の憲法をもち、天皇というシムボルをもつ屈従の民のはかない気まぎらしの智慧の輪あそびと饒舌にすぎないものであるかを検討されなければならないときになっている。
四
このような一九四九年のはげしい渦に対して、民主主義
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