を経なければならないことになった。
一九四六年から四七年にかけて日本全国にストライキの波が高まっていた時期、民主主義文学運動は、労働者階級とともに一般的に勤労者を包括した形をとり、組合の文化部は民主主義文化・文学に対して、ストライキとの連関で、文化動員を主とした。経済的・政治的活動に全生活と精力を集注する大部分の組合員と、その一部にはいわゆる文学趣味も滲透している文学サークルの人々との間に、同じ働く人々ながら、現実に向う感情には、いくらかのくいちがいも生じた。一九四六―七年、日本の全産業面に労働組合が組織され、そこに党細胞が公然と活動しはじめたことは日本の労働者、勤労者すべてにとって全く新しい歴史のはじまりであった。そして、この期間は同時に、戦時中最悪の労働条件に虐使されて来た勤労男女が、基本的な人権と労働の権利にたって、インフレーションとたたかいながら、日本の労働条件を半植民地の低さから解放しようと奮闘した。外にあらわれた形では大小のストライキ続きだったこの一九四六―七年に、しかし勤労しストライキする人々の間から、「太陽のない街」は一つも書かれなかった。『勤労者文学作品集』の内容は、この事実をかたっている。
永い戦争の間、八絋一宇精神にしたがえられて、「日本が勝つためには」と追いつかわれて来た働く人々の間からは、スパイ制度と憲兵の活動によって、労働者階級として読むべき政治的な書物は根こそぎ奪われていたし、働く人々の日常からの判断としておこる当然の戦争に対する疑問や批判も、刑罰をもって監視されて来た。
したがって、八月十五日までは勤労動員で奴隷的労働をしていた青年労働者たちが、三ヵ月ののち、そこに出来た労働組合の青年部員と組織されたにしても、その気持がすっぱりと階級の意識と階級の規律とにつらぬかれた青年労働者として転換しないのはやむを得ないことであった。組合の政治教育、文化・文学教育も、政治教育はとくに活溌ではあったが、それとても自分のところの組合組織の確立、ストライキ、他の組合のストライキの応援と、職場の活動的な分子ほど、彼の二十四時間は寸刻のゆとりもなかった。この種の事情は産別宣伝部で発行した『官憲の暴行』という各職場からのルポルタージュをよむと、誰にしても諒解せずにはいられない。
この重大な時期に民主主義文学運動の中軸としての労働者階級としての文学は、
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